第58話 三人の支点送り切りと八割の断面
午後一時半の開始合図と同時に、鳴海解体工房の三つのレーンで、三人の若手がそれぞれの固定具に据えられた鉱脈鹿の後ろ脚へ試作刀の刃先を添えた。
俺と鳴海は腕を組んで二メートル後ろのラインに立ち、佐伯湊は中央の計測卓で三人分の荷重モニターを静かに見守っている。カメラの回っていない作業場には、空調の微かな風音と、三人の整った呼吸音だけが響いていた。
まずは表層の不可食外皮を避け、一拍目の浅腱を開く工程だ。
十頭耐久を経験した無傷の若手はもちろん、今日が本番復帰となる二人の動きも驚くほど落ち着いていた。
鳴海が定式通りに面直しした中砥石で表裏五回の小刃を付けた刃先が、浅腱の繊維の境目へすっと吸い込まれる。柄の手元側に寄せた重心が効いているため、三人の手首は真っ直ぐ保たれたまま、包丁の自重だけで白い浅腱が音もなく開いていく。
「いい入りです。三人とも、一拍目の角度ブレは一度以内、荷重も緑色の安全域の真ん中です」
湊が声を潜めて報告する。鳴海も無言で頷き、じっと三人の肘と指先を見つめていた。
開始から十五分が過ぎ、作業はいよいよ関節奥の最も硬い深部二重腱――かつて二人が刃を止められ、手首を痛めた鉱物質の交差部へと差し掛かった。
最初に深部へ入ったのは、十頭耐久を走り抜いた無傷の若手だった。
浅腱の奥で硬い節に刃が触れた瞬間、彼は一拍置いて小指を柄からふわりと浮かせ、息を吐きながら右肘を脇から一歩外へ抜いた。柄の腹の丸みが中指と薬指の付け根の上を転がり、支点が前へ送られる。
――すっ、と湿った低い音がひとつ鳴り、最も太い二重腱が断面を潰さずに一太刀で断ち切られた。
続いて、復帰組のもう一人の若手が深部へ刃を入れる。
彼もまた、自分が二日間外から記録し続けたタイミング通りに一度小指の力を抜き、肘を外へ逃がして柄の腹へ重心を乗せた。モニターの波形はわずかに山を描いただけで、黄色い注意域の手前で滑らかに落ちていく。
そして、隣のレーンで俺の元後輩の若手が、関節の最深部へ刃を進めた時だった。
――カツ、と。
鉱物質が特に濃く沈着した二重腱の節に刃先が当たり、包丁の進行が一瞬だけ止まった。
元後輩の肩がわずかに跳ね、柄を握る小指にぐっと力が入りかける。昔の癖で、止まった刃を手首の返しで無理やり押し込もうとする反射だ。湊のモニターの波形が、緑色から黄色い注意域の境界へじわりと近づく。
鳴海が思わず半歩前に出かけたのを、俺は手のひらで静かに制した。
「待て。あいつが自分でどこを見るか、見ていろ」
元後輩は、押し込みかけた手首を自分の意思でぴたりと止めた。
刃を腱の中に残したまま、一度だけ大きく肩の息を吐き出す。そして、観察期間中に自分が仲間に声をかけた時と同じように、柄尻を握りかけていた小指をすっと浮かせた。
小指が離れたことで、手首のロックが解ける。
彼は無理に前へ押すのをやめ、脇に詰まりかけていた肘をゆっくりと外側へ抜きながら、柄の腹の支点を前へ転がした。
――スッ……。
硬い節のすぐ裏にある繊維の隙間へ、包丁の自重と支点移動の力が真っ直ぐに届き、抵抗なく二重腱が断ち切られた。モニターの波形がすっと緑色の底へ戻り、湊が安堵の息を漏らす。
そこからは、三人とも迷いのない刃捌きだった。
関節の二重腱をすべて外し終え、骨に沿ってスネ肉を剥がし取っていく。制限時間の四十分を八分以上残して、三人がほぼ同時に包丁を置き、一歩後ろへ下がった。
「……作業終了! 三人とも制限時間内、手首の荷重警告は一度も鳴っていません!」
湊の声が作業場に響き、俺と鳴海は三つの作業台へ歩み寄って検分に入った。
作業台の上には、新規後ろ脚三本から外された三塊の鹿スネ肉が、赤身の膜を傷つけず艶やかな塊のまま並んでいる。骨側に残った肉もごくわずかで、断面の毛羽立ちもない。
「歩留まりは三本とも八割五分以上。断面の品質も文句なしの八割超えだ」
俺がノギスと秤の数字を確認して顔を上げると、鳴海も二人の手首を確かめてから深く頷いた。
「手首の熱も痛みもゼロですね。――三人とも、最終実技試験、合格です!」
「……っ、やった……!」
元後輩の若手が両手で顔を覆い、隣の二人も声を上げて互いの肩を叩き合った。
湊がパソコンの画面を保存し、誇らしげに眼鏡の位置を直した。
「試作包丁の基本形六本と、三頭周期の面直し定式、そして『支点送り切り』。これで鳴海工房の安全基準と基本手順が、現場のデータとして完全に実証されました」
俺たちはまず、切り分けた後ろ脚から不可食の硬質外皮と腱端クズを廃棄容器へ除外し、残余の可食精肉と骨を通常納品枠の保冷ケースへ移管して試験検体の処理を閉じた。そして、三人が自力で綺麗に外した食用スネ肉の取り分三脚分だけを、今夜の合同打ち上げの料理用に別ボウルへ確保した。
休憩卓へ移ると、鳴海が淹れてくれた温かいはちみつ生姜紅茶と、一切れずつのカステラが配られた。
甘いカステラと生姜の香る紅茶を口にしながら、三人が自分たちの外したスネ肉のボウルを誇らしげに見つめている。
俺は包丁の背を軽く鳴らし、三人に笑いかけて言った。
「……見事な八割超えだ。さあ、お前たちが自分の手で外したこのスネ肉で、今夜の打ち上げの赤ワイン味噌煮込みを仕込むぞ」




