第57話 反応確認の朝と三本の後ろ脚
十七日目の午前十一時半。一眠りして俺が鳴海解体工房へ顔を出すと、作業場にはもう三人の若手が揃い、静まり返ったレーンの前で背筋を伸ばしていた。
明るい昼の光が差し込む作業台の前で、鳴海が前日の軽負荷試技から一晩を経た二人の手首を、片方ずつ指先で丁寧に確かめている。
「……腫れなし、熱感なし。親指側にも小指側にも、動かした時の遅発痛や引っかかりはありませんか?」
「はい、親方。昨日の夜から今朝まで、痛みも違和感も一切出ませんでした」
元後輩の若手が自分の手首をゆっくりと回してみせ、隣の若手も「俺も昨日よりむしろ軽いくらいです」と晴れやかな声で答えた。
そばで記録簿を開いていた佐伯湊が、二人の手首の動きを確かめて万年筆で最後の欄にチェックを入れた。
「昨日の五分間の試技から一晩置いても、遅発痛や腫れのぶり返しは一切なし、ですね」
「ええ。これで復帰の条件はすべて満たされました」
鳴海が立ち上がり、事務所の電話へ向かう前に三人へ力強く頷いた。
「本日の最終実技試験を正式に確定します。今から取引先へ連絡し、予約していた新しい鉱脈鹿の後ろ脚三本を十二時半に搬入してもらいます」
三人の若手が顔を見合わせ、ぐっと拳を握りしめた。
ガラス戸の向こうで鳴海が受話器を取り、搬入の確定を伝えている。カメラの三脚を片付けた作業場で、今日の試験を見届けるのは俺と鳴海、湊の三人だけだ。
昼の十二時半ちょうど、保冷トラックが工房の搬入口へ滑り込んできた。
運び込まれたのは、氷温で厳重に予冷された最終試験用の新規検体――還流期の鉱脈鹿の後ろ脚三本だ。これまでの検証で使った切断済みの脚や十頭ロットとは別の、まだ誰の刃も入っていない真新しい三脚が、三つの専用固定具へ一本ずつ据え付けられた。
関節の周りには、灰白色の硬い外皮と、その奥で鈍く光る鉱物質の二重腱が張り巡らされている。
それを目の当たりにした瞬間、元後輩の若手と、もう一人の復帰組の若手の表情に、ほんのわずかな硬さがよぎった。一度この部位で刃を止められ、手首を痛めた記憶が、本能的に指先を緊張させているのだ。
その空気を察した鳴海が、研ぎ場の清潔な布の上から、手入れを終えたばかりの試作包丁を運んできた。
「来なさい。今日、あなたたちが使う包丁です」
布の上に並んでいるのは、この検証で使い込んできた試作基本形の六本だ。
鳴海はその中から、復帰する二人へ段階三の二本を、無傷の若手へ段階二の一本を選んで作業台に置き、残りの三本を脇の予備ラックへ静かに納めた。
「昨日、五分間の試技で握ったそのままの重心と刃先です」
鳴海は一本ずつ柄を向けて三人に手渡した。
「砥石の面も小刃の角度も、今朝のうちに揃えてあります。いつも通りの呼吸で入りなさい」
続けて鳴海は、付属厨房から白い皿と急須を運んできた。
皿の上には、海苔を巻いた小さな梅干しと塩昆布のおにぎりが二つずつ。急須からは、香ばしい温かい麦茶が湯呑みに注がれる。
「試験開始まであと三十分あります。まずはこれを食べて、腹と呼吸を落ち着けなさい」
「……ありがとうございます、親方!」
三人は作業場脇の休憩卓で、小さなおにぎりを頬張った。
梅干しのキュッとした酸味と昆布の旨味、ほどよい塩気が唾液を呼び、温かい麦茶が食道を通り抜けると、強張っていた二人の首筋からすっと余計な力が抜けていくのが見えた。空腹でも満腹でもない、集中力が一番澄み渡る加減だ。
午後一時二十分、手を洗い直した三人が、それぞれの固定具に据えられた後ろ脚の前へ立った。
湊が各レーンの脇にある小型モニターを起動し、角度と荷重の記録画面を立ち上げる。
俺は三人の背中を見渡し、自分の腕を組んで一歩後ろの監督位置へ下がった。
「言っておくが、今日は俺も鳴海も、途中で包丁を受け取ったり手本を見せたりは一切しない。最初から最後まで、お前たち三人の手だけでやる試験だ」
三人が真剣な瞳で俺を振り返った。
「途中で詰まっても、こっちの顔は見るなよ。どこで力を抜けばいいかは、お前たちが一番よく見てきたはずだ」
「……はい!」
元後輩の若手が、柄の腹の丸みを指先で確かめ、深く息を吐いた。
「俺たちが記録して掴んだ支点を、そのまま出してきます」
作業場の壁時計の針が、午後一時半を指す。
俺は静まり返ったレーンへ視線を送り、短く告げた。
「制限時間は四十分。目標は手首の安全荷重域の維持と、歩留まり・断面品質八割以上だ。――始め」




