第56話 医師の再評価と軽負荷の一太刀
翌日の午後一時半。睡眠を終えて俺が鳴海解体工房へ入ると、午前の整形外科で個別の再評価を終えた二人の若手が、白い所見票を手に作業場へ戻ってきたところだった。
「親方、真壁さん、佐伯さん。ただいま戻りました!」
元後輩の若手が、これまで巻いていた厚手の固定具を外した手首を見せ、明るい声で所見票を差し出した。もう一人の若手も、並んですっと頭を下げる。
鳴海が二枚の所見票を順番に読み込み、ほっと息を吐いた。
両名とも安静時痛と圧痛が消え、手関節の可動域も回復していること。その上で、本日の実技は柔らかい普通部位での五分間までとし、明朝までに腫れや遅発痛の再燃がないことを条件に本試験への復帰を認めるという医師の判断が、二枚それぞれに記されていた。
「……よし。二人とも、今日の五分間の許可が出ましたね」
鳴海は頷いて作業台へ回り、本番の鉱脈鹿ではなく、前日に工房の通常業務枠で入庫していた普通規格の軟腱部位をまな板の上に据えた。
脇ではノートパソコンを開いていた佐伯湊が、二枚の所見票を受け取ってファイルに留める。
「センサーは昨日まで皆さんが記録していた段階三の包丁に繋いであります。ただ、画面の波形は包丁の負荷を測るだけで、手首が治りきった保証ではありません。数字が緑色の安全域でも、少しでも引っかかりや張りを感じたら、その一太刀の途中で迷わず手を止めてくださいね」
「はい、少しでも変だったらすぐ言います!」
二人は引き締まった顔で頷き、消毒した手を拭いて作業台の前に並んだ。カメラを切った静かな作業場で、無傷の若手もすぐ脇の位置につく。
湊がセンサーコードの繋がった段階三の試作包丁二本を、二人の手元へ静かに差し出した。
四日ぶりに自分の手で包丁の柄を握った元後輩が、ふっと息を吸い込む。柄の手元側に寄せた重心が手のひらに収まり、角を丸めた柄の腹が中指と薬指の付け根にぴたりと触れる。
「手首を固めるなよ」
俺は斜め後ろから、落ち着いた声で一つだけ声をかけた。
「昨日、仲間が配信で言っていた通りだ。一拍目で浅い膜に刃を置いたら、一度だけ小指を柄から軽く浮かせて息を吐け。押すんじゃなく、肘を脇から一歩外へ抜いて、柄の腹の支点を前へ転がすんだ」
「……はい」
二人は同時に深く息を吐き、普通規格の軟腱へそっと刃先を添えた。
一拍目。小刃付けを整えた刃先が、自重だけで表面の薄い膜へ吸い込まれる。
二人の小指が、柄尻からほんの一ミリだけふわりと浮いた。手首で押し込もうとする昔からの癖がそれで断たれ、二拍目で両方の肘がすっと脇から外へ抜ける。
――すっ、と。
音も立てずに、柄の腹を支点にした刃が前へ滑らかに送り出され、白い軟腱が鮮やかな断面を見せて左右へ開いた。
湊のモニターに映る二人の応力波形は、低い緑色の安全域をなだらかに這ったまま、一度も跳ね上がらない。
「……すごい。本当に、手首に何の引っかかりも来ないです」
もう一人の若手が、信じられないといった様子で自分の手首と包丁の柄を見比べた。
「いつもなら、切り終わりで手首を返しそうになるのに、小指を浮かせて肘を抜くと、包丁の重さが勝手に前へ進んでくれます」
二人はそのまま急ぐことなく、五分間の制限時間の中で一太刀ずつ呼吸を合わせ、普通部位の軟腱を丁寧に切り分けていった。
五分を告げるタイマーが鳴り、二人が包丁を置いた。
「五分間終了です。ピーク荷重は両名とも安全基準の半分以下、フォームの乱れもありません」
湊がセンサーを外し、鳴海がすぐさま保冷剤を取り出して二人の手首を軽くアイシングさせた。試技で使った普通規格の軟腱部位は、可食の赤身部分を工房の通常賄い枠へ、不可食の筋端を廃棄容器へと手際よく仕分け、その日のうちに処理を閉じた。
「よく我慢してゆっくり切ったな。手首の熱や痛みはどうだ?」
「はい、痛みも張りも全然ありません!」
ほっとした顔を見せる二人を休憩卓へ座らせ、俺は付属厨房の小鍋で温めておいた遅めの昼食を人数分の器に盛って運んだ。
甘辛く炒り煮にした鶏そぼろと、おろしたての生姜、刻み葱をたっぷり乗せた温かい鶏そぼろ温麺だ。
「四日ぶりに包丁を握って、肩に力が入ってたろ。生姜で中から温めてほぐせ」
「いただきます!」
湯気立つ温麺を啜り込むと、鶏の優しい出汁と生姜の爽やかな辛みが広がり、久しぶりの実技で張り詰めていた二人の肩からすっと力が抜けていく。無傷の若手も隣で器を抱え、「明日、三人で並べるのが本当に楽しみです」と嬉しそうに麺を啜った。
食事を終える頃、鳴海が事務所の電話で取引先と連絡を取り、休憩卓へ戻ってきた。
「明日の昼十二時半に、新しい鉱脈鹿の後ろ脚三本を予約手配しました。明朝の反応確認を二人とも通過した時だけ正式に搬入してもらい、午後一時半から本試験に入ります」
鳴海は二人の手首をもう一度点検してから、卓上の空の器を盆へ引き取った。
「今日はもう包丁にも洗い物にも触れず、このまま真っ直ぐ帰って休みなさい」
「……はい、親方。明日の朝、万全で戻ってきます!」




