第55話 琥珀のコンソメと定まった刃筋
午後八時半。鳴海解体工房の休憩卓に並んだ八つの白いスープカップの中で、鉱脈鹿の二重腱と髄骨から引いたコンソメが、天井の照明を透かして深い琥珀色に揺れていた。
俺とリンが運んだカップの前で、こはく、鳴海、佐伯湊、そして三人の若手職人が息を呑んで水面を見つめている。カメラの電源はすでに切られており、ここにあるのは二日間にわたる十頭耐久検証を走り抜いた八人だけだ。
「冷めないうちに飲もう。表面が乾くと、せっかくのゼラチンの膜が張っちまうからな」
俺が声をかけると、全員が同時にカップへ手を伸ばした。
湯気と一緒に立ち昇るのは、獣臭さの微塵もない、深く澄み切った滋味と香味野菜の甘い香りだ。俺も自分のカップを持ち上げ、縁に口をつけてゆっくりと一口含んだ。
舌の上を滑る液体は、さらりとしているのに驚くほど厚みがあった。
三時間半、九十度手前の弱火で煮出した二重腱のコラーゲンが余さず溶け込み、わずかな塩だけで輪郭を整えた鹿の旨味が、喉から胃の奥へじんわりと染み渡っていく。飲み込んだ後も、上唇と下唇がぴたりと吸い付くような濃密な余韻が静かに残った。
「……あ、これ、ガチで言葉が出ないやつです」
こはくが両手でカップを包み込んだまま、目を丸くして吐息を漏らした。
「お肉の脂っこさとは全然違うのに、身体の芯からぶわっと熱くなります……!」
その隣で、佐伯湊は湯気で眼鏡がわずかに曇るのも構わず、二口、三口と続けてカップを傾けていた。口元から陶器を離し、澄み切った琥珀色の底を見つめて小さく息を吐く。
「……画面の波形ばかり追っていた部位なのに、器の中ではこんなに静かな味がするんですね」
「ええ。骨の粉ひとつ浮いていません」
鳴海も自分のカップをゆっくりと傾け、喉を鳴らしてから穏やかに応じた。
「カップを持つ指先まで温まりますね。佐伯さんも、冷めないうちにどうぞ」
取引先へ出荷した通常精肉とは別に、検証枠として十頭から一頭分ずつ集めた食用二重腱と髄骨の旨味が、いま目の前の八つのカップに凝縮されている。
俺や鳴海と分担しながら十頭耐久の後半まで包丁を握り抜いた無傷の若手は、ふうっと息を吹きかけては熱いスープを勢いよく啜っていた。半分ほど一気に飲んでから、自分の右手のひらとカップを見比べて顔をほころばせる。
「自分が外した腱もこの中に溶けてるんですね。……熱いのが腹に落ちて、やっと肩の力が抜けました」
向かいに座る負傷中の二人も、サポーターのない方の手でカップを支え、一口ごとに噛みしめるように喉を鳴らしていた。
元後輩の若手が、カップの底に残った最後の一滴まで飲み干し、白い陶器を卓上に置いた。
「……美味いです。外から波形と手元を記録しながら、どこで肩が上がるか、どのタイミングで砥石を直せばいいか、俺たちも目と頭にしっかり焼き付けました」
もう一人の若手も、空になったカップを置いて深く頷く。
「はい。この味を知ってしまったら、俺たちも自分の手で綺麗に外して、次の料理に繋げたくなりました」
リンも自分のカップを綺麗に飲み干し、白い湯呑みを置くように静かに息をついた。
「……いい出汁。二号車の朝の鍋とは違うけど、骨と筋の時間をかけた味、すごくよく分かる」
八人全員がカップの底まで飲み干し、白い器から立ち昇っていた甘い湯気が静かに消えた。
心地よい温もりが卓を包む中、俺は空のカップを重ねながら、封筒を手元に置いた二人の若手へ視線を向けた。
「明日の午後、先生の許可が出て五分間だけ手を動かす時は、こいつもすぐ脇に立たせる」
俺が隣で空のカップを拭いていた無傷の若手を顎で示すと、彼はぱっと顔を上げて自分の胸を叩いた。
「はい! 二日間、外から俺の肩と小指を見て止めてもらいましたから、明日は俺が横でしっかり見ます。一拍目で力が入ったらすぐ声をかけますから、一人で抱え込まないでください」
その言葉に、元後輩の若手がサポーターの端を押さえていた指を緩め、小さく息を吐いて頷いた。
鳴海も空の器を盆にまとめながら、もう一人の若手へ静かに目を向ける。
「午前の診察でもし所見に差が出ても、遅い方の歩幅に全員で合わせます。焦らず、今のままの手首を先生に診てもらってきなさい」
「……はい、親方。変に見栄を張らずに、ちゃんと診てもらってきます」
もう一人の若手が手元の封筒を両手で持ち直し、隣の元後輩と視線を交わした。
午後十時、俺たちは工房の戸締まりをして解散した。
防波堤の本店へ十時半に戻ると、俺は深夜零時からの通常営業の仕込みにかかる前、リンに奥の控室を指さした。
「リン、開店まで一時間半ある。先に少しでも横になっておけ」
「……うん。零時前に、起きる」
リンが頷いて控室へ入るのを見送り、俺は静かな厨房で深夜の寸胴に火を入れた。
明日の午後、工房で待つのは、二人の若手が四日ぶりに包丁を握る最初の一太刀だ。




