第54話 布濾しの黄金と医師への連絡票
午後七時半、工房の付属厨房には、言葉を忘れるほど芳醇な香りが満ちていた。
三時間半にわたって九十度手前の弱火でコトコトと煮出した大寸胴の火を止め、俺はまずトングを使って、役目を終えた十頭分の髄骨の煮殻と香味野菜を静かに引き上げた。
鍋の中に残っているのは、かつて刃を跳ね返したあの硬い二重腱が、時間をかけて余さず溶け出した黄金色のスープだ。
「リン、そっちのボウルと漉し器を押さえてくれ」
「……うん。ネル布、濡らして絞ってある」
リンが目の細かいフランネルの布を張った漉し器を深いステンレスボウルの上に構える。
俺はお玉で寸胴のスープをすくい、表面のわずかな脂と微細な浮遊物を揺らさないよう、ネル布の真ん中へゆっくりと注ぎ入れた。
――トプ、トプ、トプ……。
布の目を通ってボウルへ落ちていく液体は、一点の曇りもない、透き通った深い琥珀色をしていた。
水分が蒸発し、アク引きと布濾しのロスを経て凝縮されたスープは、お玉から垂れるしずくがわずかに糸を引くほど濃厚なゼラチン質を含んでいる。
コンロの脇でその光景を見つめていた佐伯湊が、ごくりと息を呑んだ。
「……信じられません。数値の上ではただの『剪断抵抗が高すぎる厄介な硬質組織』だったあの二重腱が、外皮を除いて正しく火を入れると、こんな宝石の結晶みたいな液体になるんですね」
「ああ、最後の一滴まで綺麗に落ちたな。塩の当たりを診たら、すぐ温かいカップへ注ぐぞ」
俺は濾し上がったばかりの琥珀コンソメを、味見用の小さな白磁の猪口に数滴だけ垂らし、リンと分け合った。
舌に乗せた瞬間、塩をほんの少ししか当てていないにもかかわらず、凝縮された鹿の旨味と甘いコラーゲンが口いっぱいに広がり、唇がぴたりと貼りつくような濃密な余韻が残った。
「……すごい。濃厚なのに、水みたいに澄んでる」
リンが目を細めて頷く。十頭分の食用二重腱と髄骨の旨味を余さず引き出した黄金色のスープは、今夜ここに集まった八人――俺、リン、こはく、鳴海、湊、そして若手三人がちょうど一杯ずつ味わえるだけの量に凝縮されていた。
俺とリンが八人分のスープカップを湯煎で温めている間、休憩卓では手首を休めている二人の若手が、明日の医師の診察へ持参する経過記録票と波形ログの控えを封筒に揃えていた。
元後輩はサポーターの上から自分の手首をそっと撫で、少しだけ眉を寄せて呟いた。
「……腫れも熱感もすっかり引いたんですけど、いざ明日、先生に診てもらって久しぶりに包丁を握るとなったら、頭で分かっている通りに小指の力を抜けるか少し怖くて。昔の手首で押し込む癖が、咄嗟に出てしまわないか心配なんです」
隣で角度ガイドのメモを綴じていたもう一人の若手も、控えめに声を落とした。
「俺は、もし明日の診察で二人の回復具合に差が出たらどうしようって考えてました。片方だけ先に進むことになったら、また焦って無理をしてしまいそうで……」
すると湊がノートパソコンを閉じ、元後輩の手元へ視線を向けた。
「私が作ったセンサーの波形は、あくまで包丁と構えにかかる物理的な負荷を測るもので、腱が医学的に治った証明にはなりません。ですから明日は、まず午前中に医師の個別再評価を受けてください。そこで許可が出ても、午後は鉱脈鹿ではなく、普通規格の柔らかい部位で五分間だけ小指の抜き方を確かめます。手元の正面にモニターを置きますから、昔の癖で小指を握りかけたら、押し込む前にすぐ画面で見て止められますよ」
続けて鳴海が二人の封筒を受け取り、もう一人の若手の目を真っ直ぐに見た。
「その五分間の試技の後も、明後日の朝まで一晩置いて、痛みや違和感がぶり返さないか反応を見ます。医師の所見、五分間の軽負荷、そして一晩の反応――この三つを二人とも満たした時だけ、新しい後ろ脚三本の入荷と最終試験を確定します。一人でも届かなければ、入荷も試験も迷わずその先へ順延しますから、片方だけ置いていかれて焦る心配はいりません」
元後輩はサポーターを撫でていた指を止め、ほっと息を吐いた。
「……柔らかい部位で五分間、モニターを見ながらなら、頭が真っ白にならずに小指を確かめられそうです」
もう一人の若手も封筒の口を折り、顔を上げた。
「入荷ごと待ってもらえるなら、明日の診察で変な見栄を張らずに、今のままの手首を先生に診てもらえます。ありがとうございます、親方、佐伯さん」
覚悟が決まった若者たちの顔を見て、俺は温めた八つのカップへ黄金色のスープを注ぎ分け、鳴海と共にテーブルへ運んだ。
「さあ、かつて私たちの刃を跳ね返したあの二重腱が、どんな味になったか確かめましょう」




