第53話 支点送り切りの公開解剖
午後六時半。午後六時に透との湾岸の仕込みを終えて合流したリンが付属厨房で寸胴の火加減を見守り、作業場ではこはくが二画面配信のモニターを立ち上げた。
画面のタイトルは『鉱脈鹿・十頭耐久の記録と「支点送り切り」標準手順』。記録席の二人はレンズの画角外へ控え、カメラは作業台の模擬治具と研ぎ場だけを真っ直ぐ捉えている。こはくの合図に頷き、俺はマイクの前へ立った。
「こんばんは、『おっさんの解体キッチン』だ。一昨日の続きになる。十頭分の記録と、うちの研ぎ場と手元で出した答えを順番に見せていくぞ」
カメラの赤いランプが灯ると同時に、待機していた各国の職人や見習いたちから一斉にコメントが流れ始めた。
『待ってました!』『一昨日の深部で止まったところからどう解決したんだ?』『十頭連続でテストしたのか!』『左の画面、一頭目から十頭目までのグラフが並んでるぞ!』
左画面には、昨日の一頭目から三頭目、そして今日の四頭目から十頭目まで、二日間かけて十頭ロットを処理した際の実測録画ログが並んでいる。すでに十頭分の後ろ脚はすべて切断済みのため、実測の波形ログと、作業台の教育用模擬腱治具、そして研ぎ場の実演を組み合わせて見せる構成だ。
まず湊が左画面で昨日の三頭目に起きた抵抗上昇の波形を示し、続けて今日の四頭目から十頭目まで低い緑のラインが維持された比較グラフを出した。右画面では鳴海が中砥石に鉛筆で格子線を引いて修正砥石で消す『面直し』と、角度ガイドを使った表裏五回ずつの小刃付けを実演し、最後に無傷の若手が模擬腱治具で、一拍目の浅腱から二拍目で肘を抜いて柄の腹へ重心を転がす『支点送り切り』を鮮やかに通してみせた。
手順の要点が一通り画面に出揃ったところで、各国の現場職人たちから踏み込んだ質問コメントが次々と飛び込んできた。
『質問! うちの地域は鉱脈鹿じゃなくて岩甲猪が多いんだが、同じ「三頭ごとに面直し・表裏五回」の数字をそのまま使えばいいのか?』
そのコメントを読み上げた鳴海が、濡れた中砥石の縁を軽く叩いて首を振った。
「いいえ、『三頭』や『五回』という数字をそのまま他の魔獣や別の鋼材に当てはめないでください。この数字はあくまで還流期の鉱脈鹿の後ろ脚と、当工房の鋼材・中砥石の組み合わせで算出した値です。別の現場へ持ち帰っていただきたいのは数字ではなく、『刃が滑る前に砥石に鉛筆で格子を引き、線が消えるまで平らに戻すこと』と、『手首で押し足したくなったら職人の根性ではなく砥石の凹みを疑う』という判断基準です」
続けて、別の見習いから切実なコメントが流れた。
『理屈は分かったけど、何頭も続けて捌いて疲れてくると、無意識に二拍目で小指を握り込んで肘が詰まりませんか? どうやって自分で気づけばいいですか?』
俺が答えるより先に、模擬治具の前に立っていた無傷の若手が「あ、それ、今日俺が八頭目でやりかけました!」とマイクへ一歩出た。
「七頭目までは順調だったんですけど、八頭目に入る時、疲れで肩がほんの少し上がって、二拍目で小指に力が入って肘が脇に詰まりかけたんです。その時、外で記録を見ていた仲間が『肩が上がってるぞ』って止めてくれて。そこから自分で気づくコツとして、一拍目で浅腱に刃を置いた瞬間、一度だけ小指を柄から軽く浮かせて息を吐くようにしました。俺の場合はそれで握り込みに気づけて、九頭目と十頭目は手首で押し足さずに肘を外へ逃がせました!」
『当事者の見習い君の工夫、すぐ真似できるぞ!』『一拍目の小指と息なら、センサーがないうちの作業場でも自分の手元で確かめられるな』
俺は模擬治具の脇からカメラへ向き直った。
「今回見せた波形も手順も、あくまでこの十頭の鹿と包丁で測った記録だ。どの現場でも一番大事なのは、刃が重くなった時に根性で押し切らず、一度手を止めて砥石の面と自分の構えを疑うことだ。おかしければ包丁を置いて休む。まずはそれぞれの研ぎ場で、鉛筆一本から試してみてくれ」
実務的な質疑応答をやり取りし、約五十分で技術解剖配信のカメラをOFFにした。
赤いランプが消えると、こはくがモニターの保存ゲージを確認して大きく頷いた。
「大将、基礎教材アーカイブとしてバッチリ保存完了です! 二日間の比較ログも実演の手元も、ガチで綺麗に録れました!」
湊がグラフの表示を閉じ、鳴海が角度ガイドの水気を布で拭き取って棚へ戻す。
休憩卓では、リンが自宅から保温ポットで差し入れてくれた温かい生姜葛湯を小さな湯呑みに注いで配ってくれた。
「……お疲れさま。みんな、いい声だった」
「ありがとうございます、天宮さん! カメラの前で手が震えるかと思ったけど、昨日からの十頭で身体が動きを覚えてました!」
とろりと温かい生姜葛湯を啜ると、優しい甘みと生姜の温もりが喉から胸へ広がり、配信の緊張が心地よくほどけていく。
その時、付属厨房の奥から、今まで以上に深く澄み渡った香りが作業場まで流れてきた。
俺は湯呑みを置き、厨房の寸胴へ歩み寄って鍋蓋をわずかにずらした。
「……よし、二重腱のゼラチンがすっかり溶け出たな。布で濾して琥珀コンソメを仕上げるぞ」




