第52話 十頭完走の波形と澄みゆく寸胴
午後二時、冷気の満ちた解体レーンへ残りの枝肉が引き出された。
前掛けを締め直した無傷の若手が固定具の前に立ち、鳴海が白布の上から面直しを終えた段階三の一号刀を手渡す。
「六頭目からいくぞ。少しでも刃が重くなったら、我慢せずにすぐ声を上げろよ」
「はい! 二拍子の肘抜き、きっちり通します!」
元後輩たちがタブレットを構え、六頭目の解体が始まった。
無傷の若手が段階三の一号刀で後ろ脚の浅腱に入り、二拍子目で肘を抜いて深部二重腱を断つ。昨日から数えて六本目の後ろ脚になるが、柄の腹のくぼみが指先に馴染み、動きに迷いがない。
七頭目、八頭目と進むにつれ、反復作業の疲れで若手の肩がわずかに上がりかけた瞬間、記録画面を見ていた元後輩がすぐに声を飛ばした。
「おい、今ちょっと小指に力が入って肘が詰まりかけたぞ! 一拍置くつもりで深呼吸しろ、包丁は八頭目の後で面直し済みの予備と交換だ!」
「おっ、サンキュ! 危ない、また昔の癖で押すところだった」
若手は肩をストンと落とし、鳴海が面直しと五回の小刃付けを済ませておいた段階二の試作刀へと持ち替えた。
三頭ごとに砥石に鉛筆の格子線を引いて平らに削り、定角ガイドで小刃を引き直す。そのサイクルが工房のリズムとして完全に回り始めていた。
九頭目、そして最後の十頭目の後ろ脚も、鈍ることのない刃先が深部の二重腱を音もなく割り、骨際から綺麗なスネ肉が外された。
「……十頭目、スネ外し完了です!」
若手が包丁を置くと同時に、パソコンの画面を見つめていた湊がぱっと顔を上げた。
「やりました……! 昨日は三頭目で刃先が摩耗して進行抵抗が上がりましたが、三頭周期の面直しと六本のローテーションを入れた四頭目から十頭目までは、手首の背屈荷重も進行抵抗も一度も黄色い注意域へ跳ねませんでした! 最後の十頭目まで、一頭目の切り始めと同じ低い波形が維持されています!」
無傷の若手が自分の右手首をゆっくり回し、タブレットを抱えた元後輩と顔を見合わせて息を吐いた。
俺と鳴海は通常納品分のスネ肉や各部位の箱を出荷便のトラックへ積み終え、受領印をもらった伝票を記録係の若手へ渡すと、手を洗って付属厨房の扉へ向き直った。
「よし、ここからは俺の仕事だ。十頭分の二重腱がどんな宝物に化けるか、仕込みを始めるぞ」
午後四時、俺は付属厨房の作業台に、保冷庫で冷やしておいた十頭分の食用二重腱と髄骨のバットを並べた。
不可食の硬い鉱物外皮や石灰化した軟骨はすでに解体時に廃棄してあるが、澄んだコンソメを引くにはもう一段丁寧な下処理がいる。
俺は骨スキ包丁の刃先で、乳白色の二重腱の表面に付着した微細な血合いや余分な脂を綺麗にこそげ落とし、太い髄骨と一緒に一度サッと湯通しして表面の臭みを洗い流した。
磨き上げた大寸胴に冷水を張り、下処理を終えた十頭分の二重腱と髄骨、それに半分に切った玉ねぎとセロリ、パセリの茎、粒胡椒を静かに沈める。
強火にかけず、最初はごく弱い火加減でじっくりと温度を上げていく。
「……すごい量ですね。あの刃を跳ね返した硬い二重腱が、お湯の中で少しずつ透き通ってきています」
湊が寸胴の縁を覗き込み、不思議そうに目を瞬かせた。
「鉱脈鹿の二重腱は、外側の鉱物質さえ削ぎ落としてやれば、中身は普通の鹿の何倍も濃いコラーゲンの塊なんだ。沸騰させてグラグラ煮ると脂が乳化して白く濁るから、こうして九十度手前の笑うくらいの火加減で、じっくりゼラチン質だけを湯の中へ溶かし出してやる」
やがて水面にぷつぷつと小さな泡が昇り始め、最初の灰色のアクが中央に集まってきた。
俺が網杓子でそのアクを丁寧に掬い取ると、湯気の向こうから、 森の奥の澄んだ湧き水と濃厚な獣肉の旨味が溶け合ったような、深く甘い香りが立ち昇り始めた。
時計の針は午後五時を回っている。
寸胴が静かに琥珀色の出汁を育て始める横で、鳴海が小鍋で温めた湯豆腐を人数分の小鉢に取り分け、削りたての鰹節と醤油を落として配ってくれた。
全員で温かい湯豆腐を頬張る。ふるふると柔らかい豆腐の甘みと鰹の香りが、十頭を捌き切った心地よい疲れに優しく染み渡った。
ちょうど小鉢を空にした午後五時半、表の引き戸が元気よく開き、配信機材を抱えたこはくが先乗りで顔を出した。肩から下げた配線バッグと三脚ケースを作業場の隅へ下ろし、額の汗を拭う。
こはくは寸胴から漂う澄んだ香りに鼻をひくつかせ、ぱっと笑顔を咲かせた。
「大将、ガチでいい匂いです! リンさんが六時半に合流するまでに、二画面の配線と録画ログの読み込み、バッチリ整えておきますね!」




