第50話 賄いミンチカレーと後半戦への誓い
午後七時、鳴海解体工房の休憩卓に六枚の深皿が並んだ。
炊きたての白飯の脇へ、大寸胴からレードルで掬い上げたばかりの『鉱脈鹿スネ肉とネック端材の粗挽きミンチカレー』をとろりとかける。昨日の初期検証で使った後ろ脚二本とネック一本――その可食取り分を余さず挽いて煮込んだ、深い赤褐色のルーだ。粗いミンチの粒が琥珀色の照りを帯びて光り、クミンとカルダモンの香ばしい湯気に、赤ワインと隠し味の赤味噌が溶け合った濃厚な匂いが立ち昇った。
「よし、初期検証の三検体分、六人前の粗挽きカレーだ。冷めないうちに食おう」
「「いただきます!」」
俺、鳴海、湊、そして三人の若手がスプーンを握った。
手首にサポーターを巻いている元後輩ともう一人の若手は、利き手ではない左手でスプーンを持つ。最初は皿の縁で角度を確かめるように慎重に掬っていたが、白飯ごとルーを口へ運んだ瞬間、二人の目が丸く見開かれた。
電動ミンサーの一番粗い目を通し、さらに一部を包丁の背で叩いたスネとネックの肉粒は、奥歯で噛んだ瞬間にゴロッとした赤身の弾力を返してくる。だが次の瞬間には、太かった繊維がほろりとほどけ、閉じ込められていた鉄分の濃い肉汁と甘いゼラチン質が舌の上へ一気に溢れ出した。
「……っ、お肉の粒がすごい。噛むたびにジュワッと濃い出汁が湧いてきます!」
元後輩が左手の不慣れさも忘れたように、二口目を追いかける。
もう一人の若手も、自分たちが片手で計量したクミンとコリアンダーの鮮烈な香り、そこから一拍遅れて喉の奥を焼く生姜と黒胡椒の辛味に、鼻頭へうっすらと汗を滲ませていた。皿の端に散ったご飯粒までスプーンの背で丁寧に集め、ルーを絡めては夢中で口へ運んでいく。
午後いっぱい実技で集中していた無傷の若手は、言葉を発するより先にスプーンが往復していた。解体レーンの冷気で冷えていた身体の芯へ、熱いルーと飴色玉ねぎの深い甘みが落ちていく。
「美味い……っ。スネとネックって、煮込むとこんなに唇がペタッとするくらい濃厚になるんですね。止まんないです、これ」
無傷の若手はあっという間に一皿目を平らげ、空いた深皿を手に寸胴の前へ立った。
隣では佐伯湊が、湯気で眼鏡のレンズが白く曇るのも構わず、サイコロ状の粗挽き肉をじっくり噛み締めていた。
「赤味噌とワインがスパイスの角を丸めていて、後口に嫌な重さが全く残りませんね。……お肉の存在感がすごくて、スプーンが止まりません」
湊は眼鏡を一度外して袖口でレンズを拭うと、若手たちに釣られるように食べるペースを上げた。
鳴海も背筋を伸ばしたまま、とろけたネックのゼラチンとスパイスの余韻を堪能し、合間にコップの冷水を一口飲んでは静かにスプーンを進めている。
俺も自分の皿を掻き込んだ。硬いスネ肉を無理に焼き物にせず、粗挽きにして時間をかけたことで、鉱脈鹿特有の野性味のある赤身がスパイスの油分と渾然一体になっていた。
俺は寸胴の底に残ったルーを木べらで綺麗にこそげ集め、無傷の若手と元後輩たちが差し出したおかわり皿へ最後の一掬いまで分け切った。昨日の初期検証三検体から取り分けた可食端材のカレーは、それで六人全員の皿から米一粒残らず綺麗に消えた。
食後の熱い番茶を湯呑みに注ぎ、スパイスの熱で温まった息を吐く。
無傷の若手が「皿洗いは両手が使える俺がやりますよ」と六枚の空皿とスプーンを重ねて流し台へ運んでいく横で、元後輩が左手で自分のタブレットを卓の中央へ引き寄せた。
画面に開かれていたのは、午後の三頭目で段階二の一号刀が止まった時の波形ログだった。
「真壁さん、佐伯さん。さっきから三頭目のログを一頭目の波形と重ねて見直してたんです」
元後輩が画面の二つのグラフを指先でなぞる。
「三頭目の深部二重腱で『ザリッ』と鳴った時、俺は最初、あいつの肘が詰まったのかと思って手元ばかり見てました。でも波形を拡大したら、肘の抜け方も手首の背屈角度も一頭目と全く同じだったんです。ただ、その少し前――三頭目の浅腱を割って深腱の表面へ刃先が触れた入り口の時点で、一頭目より進行抵抗のベースがわずかに上がっていました」
「一頭目を切った後、二頭目は二号刀に持ち替えて、三頭目でまたあの一号刀を使ったからな」
俺が番茶を啜りながら応じると、元後輩は力強く頷いた。
「はい。今日までは『誰が切って手首にどれだけ負荷がかかったか』だけを記録してましたけど、それだと刃先が完全に滑ってからしか止められません。明日の残り七頭は、包丁の番号ごとに何頭目のどの部位で抵抗の立ち上がりが変わったか、一頭ごとの摩耗の推移を別枠で記録します」
すると、隣で湯呑みを置いていたもう一人の若手が、自分が管理していた伝票バインダーの下から新しい記録用紙を取り出した。
「なら俺は、その横に『研ぎ直しを挟んだタイミングと切り始めの数値』を並べて書きます。今日、三頭目の途中で親方が小刃を引き直したのに抵抗が下がらなかったのは、砥石の状態と包丁の使用回数が記録の上で繋がっていなかったからですよね。一頭ごとの切り始めと切り終わりの抵抗値を包丁の番号別に並べておけば、次の脚へ入る前に俺たちから『その包丁は交換です』って先回りして合図を出せます」
二人がそれぞれの手で引いた新しい記録欄を見て、湊が眼鏡のブリッジを押し上げ、自分のノートパソコンを開いた。
「助かります、その記録欄でいきましょう。今日のログも、今のうちにこちらへ送ってください」
湊はタブレットから転送されたログを保存すると、パソコンを閉じて鞄へ収めた。
「私はこれからラボへ戻り、明日の朝までに試作計画の最後となる二本――浅腱の入りと深腱の支点移動を一つの柄に統合した『段階三・量産基本形』を仕上げてきます。明日は既存の四本と合わせた六本で、お二人の交換記録を回しましょう」
「頼むよ、湊さん。記録の二人も、明日の合図は任せたぞ」
俺は流し台の脇へ立ち、夕方の仕込みに使った自分の二番手包丁――骨スキを洗い上げ、乾いた布で刃先から柄まで水気を拭き取って棚のケースへ収めた。
隣でカレー皿の泡を流していた無傷の若手も、「二人が包丁の減りまで見張っててくれるなら、俺は二拍子で肘を抜くことだけに集中できます!」と明るい声を上げる。
鳴海は二人の若手が作った新しい記録表の罫線をしばらく見つめてから、静かに立ち上がり、工房の奥の研ぎ場へと歩み寄った。
水槽の横には、三頭目の後で直定規を当て、中央にわずかな三日月形の隙間が見つかったあの中砥石が置かれている。鳴海はその濡れた石の表面に、そっと指先を置いた。
「外から交換の合図を出してもらう以上、研ぎ場が感覚頼みのままでは示しがつきませんね」
鳴海が振り返り、落ち着いた声で言った。
「明日の残り七頭を同じ品質で捌き切るために、何頭ごとに砥石の面を直し、どの角度で何回刃を引けば誰が研いでも同じ小刃角が戻るのか……今夜のうちに、当工房の『面直しと小刃付けの定式』を形にしておきます」
作業場の時計は午後八時半を回っていた。これから防波堤へ戻れば、深夜零時からの本店の開店準備にちょうどいい頃合いだ。
「よし。なら俺は防波堤へ戻って、うちの暖簾を出してくる。続きはまた明日、その六本と新しい記録表が揃ったところでやろう」
鞄を肩に掛けた湊と一緒に工房の引き戸へ手をかけると、背後の研ぎ場から、鳴海が砥石に水をかける静かな音が響き始めた。




