第49話 端材ミンチの仕込みと香味の寸胴
午後五時半、前半三頭の出荷伝票を綴じ終えた工房の作業場は、洗浄機の水音も止んで静かになっていた。
俺は手を洗い、工房の奥にある付属厨房の保冷庫を開けた。
取り出したのは、今日運ばれてきた十頭ロットではなく、昨日の初期検証――まだ構えや重心が固まる前にテストで使った後ろ脚二本とネック一本から、衛生管理を守って別に取り分けておいた可食端材のバット三つだ。
バットの中の鹿スネ肉とネック肉は、途中で刃が止まったり角度を探ったりしたせいで、断面が階段状に毛羽立ち、形も不揃いに崩れている。
厨房の入口から覗き込んだ無傷の若手が、少し申し訳なさそうに眉を下げた。
「……俺たちがテストで何度も刃を止めた肉ですね。せっかくの鉱脈鹿なのに、あんなに断面を荒らしてしまって」
「馬鹿言え。お前たちが無理に押し込まずに止めたから、手首が守られてあのデータが残ったんだ」
俺はバットを作業台に並べ、現役の二番手包丁――小回りの利く骨スキを抜いた。
「それに、温度と衛生をきっちり守って冷やしておいた肉だ。断面が揃ってないなら、揃ってないなりの一番美味い形にして腹に収めるのが料理人の仕事だぞ」
俺はまず、スネ肉とネックの端材にわずかに残っていた不可食の硬い外皮と、白く石化した細かい筋膜のクズを、骨スキの切っ先で丁寧に取り除いた。
鉱脈鹿のスネとネックは、もともと運動量が多くて赤身の繊維が太い。普通に焼けば歯が立たないほど硬くなるが、繊維の中に蓄えられた鉄分とアミノ酸の濃さは一級品だ。
「手首を休めてる二人は、重い鍋やボウルは持つなよ。片手でできるスパイスの計量と、休憩卓の皿並べを頼む。湊さんと鳴海は玉ねぎと生姜のみじん切りを手伝ってくれ」
「はい! クミンとコリアンダー、カルダモンの計量ですね!」
「玉ねぎのスライスならお任せください。均一なミリ幅で揃えます」
元後輩たちが明るい声でスパイス棚へ向かい、湊が真面目な顔つきで玉ねぎの皮を剥き始める。
俺は無傷の若手と一緒に、掃除を終えた三検体分の赤身肉を、電動ミンサーの一番粗い目のプレートへ通して挽き肉にした。さらに一部は包丁の背で軽く叩き、噛んだ時に肉粒の食感がしっかり残る粗挽きミンチに仕立てる。
大寸胴にサラダ油と少しの牛脂を熱し、まずはクミンシードを躍らせる。
パチパチと小さな音が弾け、香ばしい異国の香りが厨房いっぱいに立ち昇ったところで、湊と鳴海が刻んだ大量の玉ねぎ、生姜、ニンニクを投入した。
ジュワアアッ、と白い湯気が上がり、甘い香りが渦を巻く。
木べらで鍋底を混ぜ続け、玉ねぎが濃い狐色から深い飴色へと変わったところで、粗挽きにした鹿スネとネックのミンチを一気に加えた。
「おお……お肉が入った瞬間、匂いの厚みが変わりましたね」
湊がコンロの横で目を細める。
「自分の計測テストで傷をつけた肉が、こんな風に生まれ変わるんですね」
「検証で出た端材も、正しく冷やして手をかければ立派な飯になる。……ほら、ここからがスネとネックの面白いところだ」
肉の表面に焼き色がつき、香ばしいメイラード反応の匂いが立ったところで、俺は赤ワインをひと回し注いで鍋底の旨味をこそげ落とし、鶏ガラベースのブイヨンと完熟トマト、計量してもらったスパイス、それに隠し味の赤味噌をほんの少し溶き入れた。
強火で一度沸かし、浮き上がってきた灰色のアクを網杓子で丁寧に掬い取る。
アクを引き切り、火を弱めて蓋を少しずらすと、寸胴の中はコトコトと穏やかな泡を立て始めた。
三十分、四十分と煮込むにつれ、加熱で余分な水分が蒸発してルーにとろみがつき、太かったスネ肉とネックの繊維がほろほろにほどけていく。赤身の中に閉じ込められていた濃厚な肉汁とゼラチン質がスパイスの油分と乳化し、表面につややかな琥珀色の照りが浮かび上がってきた。
失敗した検体だと目を伏せていた若手三人が、いつの間にか寸胴の周りに集まり、ごくりと喉を鳴らしている。
「……すごい匂いだ。腹の底から急に減ってきました」
「ただの挽き肉じゃなくて、サイコロみたいに肉の粒が残ってますね」
俺は木べらでルーを少しすくい、小皿に取って鳴海と味を確かめた。
口に入れた瞬間、玉ねぎの甘みとスパイスの芳香が広がり、直後に鉱脈鹿のスネ肉特有の、野性味がありながら澄んだ赤身のコクが舌の上でとろけた。硬かった筋はすっかりゼラチンに変わり、噛むたびにじゅわっと旨味が滲み出る。
「……美味いですね、真壁さん。端材だったとはとても思えません」
「初期検証の三検体分、これで一滴も無駄にせず六人分のルーに化けたな」
俺が寸胴の火を極弱火に落とすと同時に、隣の業務用炊飯器からプシュウッと勢いよく白い蒸気が噴き出し、炊きたての白飯の甘い匂いが重なった。
鳴海が作業場の時計を見上げ、穏やかな声で言った。
「皆さん、今日の検証はここまでです。熱いうちに賄いにしましょう」




