第48話 十頭ロットの仕分けと三頭目の鈍り
午後三時、鳴海解体工房の解体レーンに冷気が満ちた。
吊り下げられた十頭分の鉱脈鹿から、まずは前半の三頭が作業台へと回される。
「いいか、手首を休めてる二人は絶対にレーンへ入るなよ。脚を支える補助もなしだ。湊さんの波形記録と、通常納品分の伝票整理を頼む」
「はい、真壁さん! 記録は任せてください!」
元後輩ともう一人の若手が、壁際のデスクでタブレットと納品伝票の束を構える。
俺と鳴海が前脚や背ロース、もも肉といった通常精肉の部位を手際よく外して出荷用の保冷コンテナへ仕分け、無傷の若手が固定具に据えた一頭目の検証用後ろ脚と向き合った。
「一頭目、いきます」
若手が段階二の試作刀を握る。
一拍目で親指の付け根を支点に浅腱を無音で割り、露出した深部二重腱に刃先が触れた瞬間、二拍目で脇から肘をすっと抜いた。
柄の腹のくぼみへ重心が転がり、乳白色の硬い二重腱がカリッ、スウッと小気味よく開いていく。
「よし、波形は緑のままだ。そのまま骨際に沿ってスネを外せ」
俺が横から声をかけると、若手は落ち着いた手つきでスネ肉を骨から剥がし切った。
切り出した部位から、俺はすぐに不可食の硬質外皮と石灰化した軟骨クズを削ぎ落として廃棄用のバケツへ放り、綺麗に掃除した食用の二重腱と太い髄骨だけを保冷バットへ収めた。スネの精肉部分は、鳴海が取引先向けの通常納品枠として包装へ回す。
続く二頭目の後ろ脚も、俺と若手が交代で段階二の二本目を使い、同じ二拍子の支点送りで滑らかに外し終えた。
入職半年目の若手でも、手首を反らさず八割以上の精度でスネが外せている。納品便のトラックへ前半分の精肉箱を積み込む段取りも、鳴海の指示で滞りなく進んでいた。
だが、変化が起きたのは三頭目の後ろ脚に入った時だった。
一頭目から使っていた段階二の一号刀を若手が持ち、同じように一拍目で浅腱を割って、二拍目で深部二重腱へ支点を転がした――その途中だった。
――ザリッ。
先ほどまでは聞こえなかった、砂を噛むような鈍い摩擦音が作業場に響いた。
若手の肘は正しく抜けている。手首も反っていない。それなのに、二重腱の真ん中で刃先の進みが急に重くなり、モニターを見ていた湊が「あっ」と声を上げた。
「ストップ! 今、構えは崩れていないのに、刃先の進行抵抗が一段階上がりました!」
若手はすぐに力を抜き、包丁を止めた。
「すみません……肘は同じように抜いたんですが、急に刃が滑る感じがして」
「いや、お前の動きのせいじゃない。貸してみろ」
俺は若手から試作一号刀を受け取り、照明の下で刃先を斜めに透かした。
鳴海が付けていた微細な小刃の先端が、一頭目と三頭目の鉱物質を含んだ腱との摩擦で、ほんの髪の毛数本分だけ白く丸まっている。
「私が一度、研ぎ場で小刃を引き直してきます」
鳴海が包丁を受け取って研ぎ場へ行き、いつも使っている中砥石に水をかけて数回、刃先を滑らせた。
しかし、研ぎ直した包丁で俺が三頭目の残りの二重腱を切り進めてみると、一頭目の時のような吸い付く切れ味までは戻っていなかった。俺が段階一の予備刀も使い分けて三頭目のスネ外しと通常精肉の出荷作業をすべて完了させ、食用二重腱と髄骨の三頭分を保冷庫へ収めた後、三人で研ぎ場の水槽を囲んだ。
「……一頭目と同じ角度で小刃を引き直したのですが、腱への掛かりが浅いままですね」
鳴海が眉をひそめ、湊が持参していた携帯用の倍率ルーペで段階二試作刀の刃先を覗き込んだ。
「鳴海さん、これを見てください。刃先の角度が、一頭目の時よりコンマ八度ほど鈍角に丸まっています」
鳴海がルーペを覗き込み、自分の右手首を確かめるように動かした。
「……手元の角度は固定していたつもりですが、急いだせいで手がぶれたのでしょうか」
「いや、鳴海の手じゃない。こっちだ」
俺は濡れた中砥石の表面を指さし、ステンレスの直定規の縁を砥石の真ん中に縦へ当てた。
蛍光灯の光が、定規と砥石の真ん中の隙間から、うっすらと三日月形に漏れている。
「砥石の『中凹み』か」
定規の下の隙間を見た鳴海が、悔しそうに眉間を押さえた。
「……不覚です。普段の解体ならまだ面が持つ回数だと見て、面直しを挟まずに当ててしまいました」
「鉱脈鹿の腱で摩耗した硬い鋼を何度も急いで研ぎ直したせいで、砥石の中央だけがコンマ数ミリ削れて凹んでるんだ。平らじゃない砥石の上でどれだけ正確に手を動かしても、刃先は丸くハマグリ状に逃げて、二重腱に噛む鋭い小刃は戻らない」
湊は定規の隙間と一号刀の刃先を見比べ、手帳へ素早く数値を書き留めた。
「二頭目を外した二号刀の摩耗量と、三頭目で抵抗が跳ねた地点の波形も並べて照合します。刃先が何頭分でどれだけ減り、砥石がどこから凹み始めるのか、現物の数字を突き合わせましょう」
冷たい水と保冷肉の作業で冷えた指先を温めるため、鳴海が小鍋で沸かしておいた鶏ガラベースの熱いスープを小さなカップに注いで配ってくれた。
挽きたての黒胡椒と生姜がぴりっと効いた透明なスープを啜ると、張り詰めていた肩の力がふっと抜けていく。若手三人も両手でカップを包み、熱い湯気を吸い込んでいた。
三頭目で包丁を止めた若手がほっと息をついてカップを傾け、俺も温まった指先で最後の一口まで飲み干した。
カップを置いた鳴海が、ルーペと直定規を交互に見つめた。
「……真壁さん、佐伯さん。十頭を同じ品質で駆け抜けるには、包丁だけでなく砥石の『面直し』の周期そのものを定式化する必要があります」




