第47話 封印した勘と段階二の支点
午後一時、鳴海解体工房の重い引き戸を開けると、よく冷えた空気の奥から砥石と鋼の匂いが鼻先をかすめた。
二番手包丁のケースを棚に置き、指先を軽く握って開く。たっぷり休めた右手は、手首の芯まで引っかかりひとつなく滑らかに動いた。作業台の周りでは、清潔な前掛けを締めた無傷の若手が背筋を伸ばし、サポーターを巻いた元後輩ともう一人の若手がその一歩外で記録用のタブレットを構えている。白布のかかった台の前から、鳴海と佐伯湊が揃って顔を上げた。
「お待ちしていました、真壁さん。こちらが今朝お話しした二本です」
湊が作業台の白布を開いた。
並んでいたのは、昨日の二本に続く段階二の試作刀――深部の二重腱を抜くために柄を削り直した二本だった。これで試作包丁は四本目になる。
俺は一本を手に取り、指の腹で柄の側面をなぞった。親指の付け根が当たる腹の部分に浅いくぼみが彫られ、さらに柄の中ほどからわずかに前へ、ずしりとした重心の芯が移っている。刃先には鳴海が引いたばかりの、白く曇りのない微細な小刃が光っていた。
「段階一は親指の付け根を支点にして、浅腱へ刃を落とす重心にしてありました」と湊が眼鏡のブリッジを押し上げる。「ですが昨日のテストで分かった通り、深部の二重腱は繊維が二重に捻れていて鉱物質を含んでいます。同じ角度で止めれば刃が噛み込み、そこから手首を反らせて押し切ろうとすれば、入職半年目の手首には許容以上の負荷が跳ね返ります」
「俺が普段やってる切り方は、刃が結晶層に触れた瞬間にコンマ数秒で肘を抜いて刃角を逃がしてる」
俺は試作刀を一度台に置き、救急箱から白い非伸縮のテーピングテープを取り出した。
「だが、その微調整は十年の手の記憶でやってるもんだ。今日ここからは、そいつを封印する」
俺は自分の右手首にテープを幾重にも巻きつけ、上にも横にも反らせないよう固くロックした。
指を動かしてみる。手首の遊びが消え、入職半年目の若手が緊張して関節を固めた時と同じ、窮屈な可動域だけが残った。
「真壁さん、ご自分の手首まで固定されるのですか」
鳴海が目を丸くする。
「同じ縛りの中でなきゃ、若い連中が明日から使える形には翻訳できないからな」
作業台の固定具には、湊が用意した深部二重腱の模擬治具が据えられていた。硬質樹脂と繊維束を重ねて、鉱脈鹿の二重腱と同じ抵抗値を再現した練習台だ。
俺は段階二の試作刀を握り、テープで固めた手首のまま模擬腱へ刃先を乗せた。
まず親指の付け根を支点に、浅腱の層をすっと割る。ここまでは段階一と同じだ。すぐ下の硬い層に刃先が当たり、コツ、と鈍い反力が手のひらへ返ってきた。
いつもならここで手首の角度を微妙に寝かせる。だがテープが張って動かない。腕力で上から押せば、湊のモニターの波形が跳ね上がるだけだ。
「……手首の角度は変えない。変えるのは、柄の中で重さを預ける場所だ」
俺は柄尻に添えていた小指の力をふっと抜いた。
代わりに、脇から肘を半歩だけ外へ逃がす。すると自然に肩が落ち、親指の付け根にあった支点が、湊が削った柄の腹のくぼみ――一寸ほど前の重心ウェイトの上へとコロンと転がった。
――ス、カリッ。
小石を撫でるような乾いた音が一度だけ鳴り、包丁の自重が前へ送り出されるのと一緒に、硬い模擬繊維が真っ直ぐ左右へ開いた。
モニターを覗き込んでいた湊が、弾かれたように顔を上げた。
「……転がった。手首の背屈角度はゼロのまま、肘を脇から抜くだけで、荷重点が柄の腹のくぼみへ前に移動しています! 一拍目で浅腱に乗せ、二拍目で肘を抜いて支点を前へ送る……これなら手首を一切反らさずに、刃先へ斜めの推進力だけが生まれます!」
「手首で押すんじゃなく、肘を抜いて柄の腹の支点を前へ転がす二拍子か」
鳴海がもう一本の段階二試作刀を取り、同じように肘を緩めて柄の腹を転がしてみた。「確かに、私の小刃付けの角度ともピタリと噛み合います。刃先が鉱物質を叩かず、繊維の隙間を撫でるように滑っていく」
「よし、やってみろ」
俺が声をかけると、無傷の若手が緊張した面持ちで前へ出た。
最初は肩に力が入って肘が詰まりかけたが、記録画面を見ていた元後輩が「おい、二拍目で小指を握り込むな。真壁さんみたいに肘を脇から一歩抜くんだ」と声を飛ばした。
二度目、若手が息を吐きながら肘をふっと緩めた。
柄の腹のくぼみに親指の腹が乗り、スウッ、と模擬治具の深層が綺麗に断ち割られた。
「……あ。今、包丁が勝手に前へ進んでくれました! 手首、全然突っ張ってないです!」
若手がぱっと顔を輝かせ、タブレットを見守っていた二人も「安全域のど真ん中だ!」と声を上げた。
俺は右手首のテープを剥がし、鳴海が保冷ポットから注いでくれた冷たいハチミツ檸檬水を受け取った。添えられた一口ようかんを齧り、甘酸っぱい檸檬水を喉へ流し込む。控えめな小豆の甘みと爽やかな酸味が、集中し切った頭の熱をすっと鎮めてくれた。
その時、工房の表で大型保冷トラックのエアブレーキが鳴った。
扉が開き、冷気と共にナンバー札のついた鉱脈鹿の枝肉が次々とレールへ吊り下げられてくる。今日から二日間の耐久検証と通常納品を兼ねた、連続十頭ロットの到着だった。
受領伝票を確認した鳴海が、吊り下げられた十頭の片側の後ろ脚にだけ検証用の札を掛けていく。
「十頭から後ろ脚を一本ずつ、計十本を検証枠で外します。それ以外の部位と通常納品分の精肉は、すべて取引先への出荷用として別コンテナへ仕分けます」
「おう。練習台で一度通ったのはまだ入り口だ、生身の腱はここからだな。検証脚から出る食用の二重腱と髄骨だけは、明日の夜にコンソメを引くから専用バットで別保冷にしておくぞ」
氷の粒が光る十頭分の鹿を前に、鳴海が白衣の袖を捲り上げた。
「……ここから先、十頭連続でこの構えと刃が持つか、現場の耐久検証に入ります」




