第46話 計画休業の暖簾と八時間の眠り
深夜零時。防波堤に吹く潮風は穏やかで、波がコンクリートの護岸を洗う音だけが規則正しく響いていた。
いつもなら大寸胴の火を上げ、白い暖簾を掲げる時刻だが、今夜の『まかべ食堂』本店の窓口には『技術検証および休養のため、本日休業いたします』と書いた木の札が下がっている。配信カメラも電源を落としたまま、火の気のない厨房には静かな暗がりが満ちていた。
俺は冷えたままの寸胴の蓋を確かめ、仕込み台の端で濡れ布巾を絞った。
一晩暖簾を下ろせば、当然ながら今夜の売上は立たない。それでも毎日定常で届く通常規格豚の外注費三千円は発生するが、そいつは二号車の朝営業や鳴海の工房の検証費とは切り離して、本店の勘定で黙って呑み込めばいい話だ。絞った布巾を仕込み台に広げ、俺は厨房の戸を引いて控室へ足を向けた。
隣の二号車側からは、明朝の湾岸営業に備えて十時半過ぎに横になったリンの静かな気配だけが伝わってくる。
俺は現役の二番手包丁が収まったケースの留め金を一度だけ指で確かめ、午前三時前、プレハブ控室のベッドに身を沈めて毛布を肩まで引き上げた。
背中がマットレスに沈み込むと同時に、ここ数日の張り詰めた疲れが重たい潮のように瞼へ降りてきた。
――次に目を開けた時、カーテンの隙間から差し込む光は、すっかり高い昼前の白さに変わっていた。
枕元の時計は、午前十一時ちょうどを指している。
午前三時から十一時まで、一度も途切れずに眠り切った八時間だった。
起き上がって右手を握り、ゆっくりと開いてみる。昨日まで目の奥にへばりついていた鈍い重みが消え、母指球から手首の関節まで、油を差したみたいに軽くスッと動いた。
顔を洗ってプレハブの扉を開けると、潮風に混じって、香ばしい炒り胡麻と一番出汁の匂いが鼻をくすぐった。
本店の脇に広げた折りたたみテーブルで、朝の湾岸営業と一眠りを終えたリンと透が、小鍋の湯気を囲んでいる。
「……おはよう、巧。よく眠れた?」
「ああ、泥みたいに寝た。手首も目も軽い」
俺が椅子を引くと、透が「待ってました!」とばかりに白い歯を見せ、テーブルの上の伝票バインダーと手提げ金庫を前へ滑らせた。
「今朝の湾岸もバッチリ回してきたぜ、大将! 三時四十五分に開けてから五時四十五分まで、前払いの五百円玉が箱に鳴るたびにリンさんが生姜粥をよそって、俺が横から熱々のつくねスープを合わせた。常連の荷役のおっちゃんたちも手慣れたもんで、四十秒の波が一度も詰まらなかったよ」
「……保冷の温度も、つくねの加熱記録も、全部基準通り。片付けのあと、私も朝のうちに眠っておいた」
俺はバインダーを開き、二人の字で埋められた四度以下の保冷ログと中心温度・提供温度の記録、その下に束ねられた今朝の百五十セット分の売上伝票を指先でめくった。
俺が寝床にいた二時間のあいだに、二つの鍋が空になるまで港の朝を支え切った数字が、乾いた紙の束にそのまま残っている。
「よし、確認した。今朝の百五十セット、文句なしだ」
「へへっ、昼の二時からはまた二人で明日分の鶏二十キロの仕込みに入るからな。午後の工房は俺たちに構わず、思いっきりやってきてくれよ!」
透が胸を叩き、リンがコンロの小鍋から三つの丼へ熱々の出汁を回し注いだ。
午前十一時半の遅い朝飯兼昼餉は、本店の通常食材から用意した塩鮭の出汁茶漬けだ。
皮目までパリッと焦げ目をつけて焼いた塩鮭の粗ほぐしに、炒りたての白胡麻と刻み海苔、そこへ刻んだ三つ葉が青い香りを添えている。
「いただきます」
三人で箸を取り、湯気の立つ茶漬けをサラサラと掻き込んだ。
八時間眠って空っぽになった胃袋へ、鰹と昆布の温かい出汁が染み渡っていく。箸先で崩した塩鮭の身を噛むと、程よい塩気と脂の旨味が米粒に絡み、パリッと焼けた皮の香ばしさが鼻へ抜けた。
透は大きな口で豪快に丼を傾け、俺も出汁ごと二口、三口と続けて喉へ流し込む。熱い汁気が胸の奥まで落ちていくにつれ、休めた身体の隅々にまで静かに血が巡り始めた。
向かいに座るリンが、茶碗を持ったままふと箸を止め、湯気の向こうから俺の顔をじっと見た。
「……どうした、顔に海苔でもついてるか?」
「……ううん。目の下の影、消えた。巧の顔色、昨日よりずっといい」
リンはそれだけ言うと、少しだけ目元を緩めて自分の茶碗へ視線を戻し、残りの鮭と出汁を綺麗に食べ終えた。
二人はこのあと午後二時から六時まで、湾岸の仕込み場で明日分の仕込みに入る。俺が最後の一口を飲み干して空の茶碗を置いたところで、ポケットの端末が短く震えた。
画面を開くと、鳴海と佐伯湊の連名でメッセージが届いていた。
『おはようございます、真壁さん。工房の若手三人も昨夜はしっかり休め、今朝は良い顔をしています。手首を痛めている二人は今日も包丁や脚を持たせず観察・記録専任を徹底させつつ、佐伯さんが仕上げた段階二の深腱用試作刀二本を揃えて、午後一時にお待ちしています』
まだ見ぬ二本目の段階の刃を思い浮かべながら端末をしまい、俺は現役の二番手包丁が入ったケースを手に取って立ち上がった。




