第45話 無音の浅腱と深部に残る壁
午後八時ちょうど。こはくがミキサーのスイッチを入れ、本番配信の赤いランプが灯った。
白テープの外で記録タブレットを片手に構えた二人の若手と、リン、鳴海が静かに見守る中、俺は固定具に据えた鉱脈鹿の後ろ脚二本目へ向き直り、マイクへ声を乗せた。
「こんばんは、『おっさんの解体キッチン』だ。今夜は鳴海解体工房と包丁工学技師の佐伯湊さんと組んで、還流期の『鉱脈鹿』の硬い腱を手首を痛めずに断つテストを届ける。左画面が湊さんのセンサーで拾う手首の荷重と応力のグラフ、右画面が固定具の後ろ脚と俺たちの手元だ。まずは表層の浅腱用に整えた段階一の試作刀からいくぞ」
『待ってた!』『二画面でグラフが出てるぞ』『うちの見習いも先週、鹿の腱で手首やられたからマジで助かる』『左の緑のラインが安全基準か?』
世界中の現場職人や見習いたちから、具体的なコメントが次々と流れ始める。
俺はまず、段階一の試作二号刀を手に取り、後ろ脚の関節の端にある浅腱へ刃先を添えた。
「最初に俺が、段階一の試作刀で浅腱の端を切る。柄の腹に重心があるから、手首で押し込まず、親指の付け根を支点に柄を傾けるだけだ」
スッ、と刃先が滑り、鳴海が付けた微細な小刃が浅腱の繊維を捉えて音もなく開いた。
左画面の荷重グラフは、緑色の安全ラインのずっと下を穏やかに波打つだけで、手首への反作用はほとんど発生していない。
「よし、次は入職半年目の若手に、同じ段階一の試作一号刀で残りの浅腱を切ってもらう」
俺と入れ替わりに、無傷の若手が作業台の前へ立った。
一度深く息を吐き、先ほどの鶏団子スープで温まった肩の力を抜く。固定具が重い脚を完全に支えているため、左手はただ腱の張り具合に添えるだけだ。
「……いきます」
若手が試作一号刀の刃先を、白く張った浅腱の上にそっと乗せた。
昨日までの彼なら、ここから手首を固めて上から体重を乗せていた。だが今は、湊が調整した柄の腹の重みに逆らわず、指先の力を抜いてすっと柄を傾けた。
――スウッ。
カツンという衝突音も、繊維が軋む音も一切しなかった。
まるで温めたバターに刃を通したように、強靭な浅腱が真っ直ぐ左右へ割れ、その下から乳白色の深部二重腱が顔を出した。
左画面のグラフは、俺が切った時とほぼ同じ低い緑の波形を描いている。
「……っ、切れた! 手首に全然、重さが残ってないです!」
若手が自分の右手首を見つめて声を上げ、カメラの外で記録を取っていた二人の若手も、思わず顔を見合わせてガッツポーズを作った。
『おおお、無音で入った!』『半年目の見習いでもグラフが跳ねてない!』『柄のどこを支えてるんだ?』『小刃の引っかかりと手元重心だけであんなに変わるのか!』
弾幕が驚きと実務的な質問で埋まる中、湊がマイクへ一歩近づいた。
「柄の腹、親指の付け根が当たる位置に重心を寄せてあります。手首を背屈させて押し込むのではなく、包丁の自重で小刃を繊維へ噛ませる設計です。……ですが、問題はここからです。そのまま深部の二重腱へ刃を進めてみてください」
若手が頷き、露出した深部の二重腱へ同じ角度のまま試作一号刀を送った。
その瞬間――カチッ、と硬質な音が鳴り、刃先が二重腱の結晶層でピタリと止まった。
左画面の応力グラフが急激に黄色い注意域へ跳ね上がり、若手は教えられた通り無理に押し込まず、すぐに手を止めた。
『あ、止まった』『浅腱と同じ角度じゃ深部は抜けないのか』『ここから無理に押すと手首が死ぬんだよな……』
「見ての通りだ」と俺はカメラへ向けて言った。「浅腱は段階一の重心と小刃で無音で断てるようになった。だが、深部の二重腱は繊維が二重に捻れて鉱物質を含んでいる。角度を固定したままでは刃が止まるし、俺が長年の勘でやってる『肘の抜き』をそのまま真似しろと言っても、半年目の若手には再現できない」
俺は試作刀を置き、画面の向こうの見習いたちへ真っ直ぐに語りかけた。
「だから明日は、俺の感覚頼みを封印する。半年目の若手の可動域の中で、深部の二重腱に当たった瞬間に柄の支点を送る『段階二の包丁と構え』を必ず形にする。今夜のテストはここまでだ」
午後九時過ぎ、こはくがカメラの電源をOFFにした。
赤いランプが消えると同時に、工房の中に温かい拍手が広がった。
「よくやったな。途中で無理に押し込まず、波形が上がった瞬間に止められたのも立派な技術だ」
「ありがとうございます、真壁さん、親方!」
俺と鳴海は、今回のテストで使用済みとなった後ろ脚二本目から、不可食の外皮や軟骨クズを除き、深部確認で断面が少し傷んだものの低温管理で衛生適合なスネ肉の可食取り分を切り分けて保冷ケースへ収めた。これで初期検体三つから出たカレー用の可食肉が三検体分、綺麗に揃ったことになる。
休憩卓では、鳴海が熱い生姜湯を淹れ、七輪で軽く炙った干し芋を皿に並べてくれた。
香ばしく甘い干し芋をかじり、ぴりっと温かい生姜湯を飲むと、大役を終えた若手の頬がほころんだ。
その隣で、湊はモニターに残った黄色い注意域の波形を手帳へ書き留め、鳴海は使い終えた段階一の試作刀二本を布で丁寧に拭き上げていた。表層の浅腱は通ったが、深部の二重腱の壁はまだそこに残っている。
「今夜は浅腱を無音で開けて、危ない手前で自分の手で止められた。まずはそこまでで十分な一歩だ」
俺は空になった湯呑みを置き、壁の時計を見た。午後十時が近い。
「人の手首を守る検証の日に、俺たちが寝不足の目で包丁を握ってちゃ嘘になる。今夜零時からの『まかべ食堂』本店は一晩、計画休業にして休む。お前たち三人も今夜はしっかり寝て疲れを抜け。サポーターの二人は、明日も包丁は握らず観察と記録の持ち場を頼むぞ」
「はい! 波形の読み方、だいぶ掴めてきました」
「段階二の試作刀二本は、明日の昼までに私のラボで仕上げてきます」
元後輩と湊の返事に頷き、俺は空の保温寸胴を抱えたリンと並んで夜の防波堤へ帰るべく工房を出た。




