第44話 浅腱テストの準備と二画面の設計
午後六時半。段階一の試作包丁二本を収めたケースを携えて俺と鳴海、湊が工房へ戻ると、正面の駐車スペースに二台の車が滑り込んできた。
撮影機材を積んだ白瀬こはくのバンと、午後六時に湾岸での仕込みを終えて走ってきたリンの車だった。相棒の透は明朝の鍋に備え、湾岸から直接宿舎へ戻っている。
「大将、鳴海さん、それに佐伯湊さんですね! お疲れ様です、カメラとミキサー一式持ってきましたよ!」
「……お疲れ。これ、湾岸の仕込みの時に作った。冷めないうちに」
こはくの明るい声と一緒に、リンが保温寸胴を抱えて作業場へ入ってきた。
照明の下では、入職半年目の無傷の若手がステンレスの作業台の前に立ち、自分の右手を何度も握っては開いていた。今夜、工房の若手三人のうち、世界中の職人が見守るカメラの前で包丁を握るのは彼一人だけだ。
少し離れた休憩スペースの長椅子では、サポーターの上から冷却パッドを当てた元後輩たち二人が、痛めていない方の手でバインダーとストップウォッチを膝の上に揃えていた。誰に言われなくても作業台からは距離を取り、自分たちの持ち場を作って待っている。
三脚を広げたこはくは、緊張で指先の硬くなっている無傷の若手と、湊の計測モニターを交互に見比べた。
「大将、今夜の配信ですけど、いつもの『神業でスパッと切って気持ちいい!』っていう見せ方とは完全に分けますね。還流素材の硬い腱で手首を痛めかけてる世界中の見習いさんたちが、自分の手元とそのまま比べられる画面にしたいんです」
「ああ、俺もそのつもりだ。どう映す?」
「画面を左右の二画面に割ります! 左半分には、湊さんのセンサーが出す『参加者別の手首荷重と応力のリアルタイムグラフ』。右半分には、包丁を握る手元の刃筋と右肘の抜き方がはっきり追える固定アングルを並べます!」
こはくは手際よく二台の小型カメラを据え、床に白いテープで真っ直ぐな境界線を引いた。
「で、このテープから外側は一切映しません! 手首を休めているお二人の姿や医療情報、取引先の伝票、それに湊さんの包丁の未公開図面はすべて画角の外へ置きます。画面に出すのは、手元の動きと波形の変化だけです」
「助かります、白瀬さん。それなら特許出願前の内部ウェイト構造を伏せたまま、重心が手首の負荷をどう変えるかだけを正確に共有できます」
湊が頷き、センサーの同期ケーブルをこはくの配信ミキサーへ繋いだ。
テープの外側の記録席に座る元後輩が、痛めていない左手でタブレットの角度を合わせ、作業台の前で立ち尽くす後輩へ声をかけた。
「おい、そんなに肩を怒らせるなよ。タイムと波形のログは、カメラの外で俺たち二人が全部拾う。お前は刃を乗せることだけ考えろ」
「……っ、はい! お願いします、先輩!」
見られる側から記録で支える側へ回った先輩の声に、無傷の若手がようやく強く頷いた。
「よし、画面の枠が決まったら、本番の前に腹へ入れておこう。リン、頼む」
「……うん。器、並べて」
カメラの電源は落としたまま休憩卓へ集まり、リンが保温寸胴の蓋を開けた。
ふわりと立ち上ったのは、おろし生姜と長葱を効かせた、鶏団子と春雨の温かいスープの湯気だった。午後に湾岸で明日の通常営業用の食材を仕込む際、通常食材の取り分からみんなのために作ってきてくれた普通の賄いだ。
無傷の若手は両手で器を受け取り、湯気へ顔を寄せた。まだ少し指先に力が残っていたが、蓮華で掬った鶏団子を口へ運んだ瞬間、ふっと目を見張った。
「……柔らかい。お肉がふわっとしてて、生姜のスープがすぐ染みてきます」
「……今日は軟骨を入れてない。噛む力も、手首の力も、本番に残しておけるように」
リンの短い言葉に、若手はもう一度鶏団子を噛み締め、ツルツルと温かい春雨を啜った。
熱い鶏出汁が喉を通り、記録席の二人も片手で蓮華を運ぶうちに、無傷の若手の浅かった呼吸がゆっくりと深く落ち着いていく。器が空になる頃には、固まっていた彼の右肩から余計な力が抜けていた。
俺と鳴海は保冷庫から、初期検体の後ろ脚二本目を取り出し、作業台の専用固定具へがっちりと据え付けた。人の手で押さえる必要のない治具の上で、まだ一度も刃を入れていない白く張った浅腱と、その奥の硬質な二重腱が照明を弾いている。
鳴海は清潔な布の上に、湊が重心を調整し、自分がラボで砥石の面を直して小刃を付けた段階一の試作包丁二本を並べた。
「お前がやるのは腕力の証明じゃない。柄の腹の重みと、鳴海が揃えた小刃の引っかかりに仕事をさせろ。少しでも重くなったら、そこで手を止めればいい」
「はい、真壁さん、親方!」
午後八時少し前。
テープの外の記録席にはサポーターを着けた二人が控え、作業台の前には無傷の若手と俺、そして鳴海と湊が位置についた。
本番の一般配信はまだ開始前のまま、カメラとセンサーを立ち上げた非公開のテストモニターの左画面に緑と赤の基準線、右画面に固定具の後ろ脚がくっきりと浮かび上がる。こはくが同期ランプを確かめ、ぱっと顔を上げた。
「大将、湊さん、手元とグラフの二画面リンク完了です! 待機枠の職人さんたちも集まってます、八時ちょうどにカメラ回せますよ!」




