第43話 佐伯ラボの鉄粉と段階一の柄
午後二時半。俺と鳴海は、工房から車でほど近い工業区画の一角にある『佐伯計測・試作加工ラボ』の重い鉄扉を潜った。
コンクリート打ちっぱなしの室内には、小型のフライス盤や旋盤、刃先の摩耗を測る光学顕微鏡、そして鳴海が持ち込んだ数種類の砥石と水槽が並んでいた。鉄粉と機械油の乾いた匂いに、水に浸した砥石の土の匂いが混じり合っている。
湊は作業台の端に詳細な内部設計図面を伏せたまま、柄の内部をくり抜いた包丁ブランクを六本並べた。
「一つの機構に全部を詰め込むと、半年目の手は迷います。だから浅腱へ刃を乗せる『段階一』、深部の二重腱で支点を送る『段階二』、最後に誰が握っても再現できる基本形の『段階三』――二本ずつ三段階の計六本に分けます。今日削るのは、最初の段階一の二本だけです」
「一度に背負わせないのはいい。手首が覚える順番通りだ」
俺が頷くと、湊はフライス盤の前へ座り、保護メガネをかけた。
ギュイィィン、と高い金属音が響き、段階一となる二本の柄の内部に真鍮製のウェイトが埋め込まれていく。湊は先ほど工房で記録した俺の波形データを横に置き、0.1グラム単位で柄の腹側の重心を微調整していた。
しかし、組み上がった一本目を俺が軽く握ってみると、まだわずかな違和感が残っていた。
「湊さん、柄の重心はいい。手首を固めなくても刃先が自然に下を向く。……だが、この工場出荷のままの均一な刃付けだと、鉱脈鹿の脂を含んだ浅腱の表面で刃先がツルッと滑るぞ」
「滑るからといって、私がいつも自分の包丁に施すような鋭角の薄刃に研ぎ上げれば、半年目の若手が少しでも力を込めた瞬間に、硬い腱に負けて刃先が欠けてしまいます」
鳴海がルーペで刃先を覗き込みながら言った。
重心を計算した湊の工学と、切れ味を知る鳴海の研ぎ。どちらか片方だけでは、若手の不安定な手元を支えきれない。
「なら、刃の角度は欠けないように少し鈍角に残したまま、表面にだけ極小の引っかかりを作る『小刃付け』を合わせよう。鳴海、砥石の面を完全に平らに出して、千番の目を少しだけ残せるか?」
「……っ、なるほど。鏡面に仕上げて滑らせるのではなく、微細なノコギリのような目を揃えて、重心を乗せただけで浅腱の繊維を噛ませるのですね。やってみます」
鳴海は袖をまくり、水槽から引き上げた中砥石に面直し用のダイヤ砥石を当てた。
シャッ、シャッ、と一定の周期で砥石の表面を削り、1ミリの狂いもない完全な平面を出す。そこから湊が重心加工を終えた二本の試作包丁を受け取り、脇を締めて一定のリズムで小刃を付けていった。
三十分後、段階一の試作包丁二本が仕上がった。
俺たちは保冷ケースから、初期検体として確保してあった鉱脈鹿のネック部位を取り出し、作業台の固定具に据えた。首周りの表層にも、後ろ脚と同じく張りの強い浅腱が走っている。
「まずは俺が、ネックの端の浅腱で刃の入りを確かめるぞ」
俺は試作一号刀の柄を軽く包み込むように握り、白く張ったネックの浅腱に刃先をそっと乗せた。
手首の力は完全に抜いている。ただ、湊が調整した柄の腹の重みに任せて、親指の付け根をわずかに傾けた。
その瞬間――ザリ、と鳴海が付けた微細な小刃が腱の表皮を確実に捉え、スウッと音もなく白い浅腱が左右に開いた。
「……っ、入った! 手首の角度を押し込んでいないのに、自重だけで最初の繊維を噛みましたね!」
湊が顕微鏡のモニターで刃先の摩耗がないことを確かめ、ぱっと顔を輝かせた。
俺はテストで切り開いたネックの端から、硬い不可食の筋膜クズだけを取り除き、綺麗に残った可食のネック端材を低温の保冷ケースへ収めた。これも午前のスネ肉と合わせて、後で賄いのカレーに使う分だ。
「ふう……まずは段階一の二本、合格だな。少し息を入れよう」
湊がラボの隅にある電気ケトルでお湯を沸かし、黒糖を溶かしたホットミルクを三つのマグカップに注いでくれた。鳴海も懐から紙包みを取り出し、途中の和菓子屋で買ってきたという塩豆大福を並べる。
「どうぞ、真壁さん、佐伯さん。甘いものと塩気があると、頭が切り替わりますから」
「いただきます。……ああ、温かい黒糖が染みるな」
鉄粉と砥石の匂いが残るラボで、三人で塩豆大福をかじりながら熱い黒糖ミルクを啜る。赤えんどう豆の塩気と餡の甘みが、集中し続けた神経を優しく解きほぐしてくれた。
湊はマグカップを両手で包んだまま、ふと作業台の旋盤を見つめた。
「……私がミルズ機関の自動解体ライン部門を出て、こんな油まみれの試作ラボに移った時、同期からは出世コースを降りた変わり者だと言われました。でも、地方の解体場で、才能ある若い職人が手首の腱鞘炎一つで包丁を置いて辞めていくのを何人も見たんです。数値は職人を縛るためじゃなく、職人が長く包丁を握り続けるための杖になるはずだと思っていました」
「……うちの三人が聞いたら、ずいぶん心強いでしょうね。せっかく柄に入れていただいた杖が刃先で滑らないよう、砥石の面は私が責任を持って保ちます」
鳴海が砥石の粉の残る指先でマグカップを置き、湊も静かに頷いて湯気を啜った。
俺は残りのミルクを飲み干し、試作一号刀の刃先でもう一度ネック検体の端の浅腱を撫でた。力を入れずに柄を傾けるだけで表層腱がすっと開く感触を確かめ、二人に向き直る。
「……これなら今夜、カメラを回して世界の若手にも見せられるな」
俺たちは仕上がったばかりの段階一の二本をケースへ収め、夕暮れの風と鉄粉の匂いが混じるラボを後にした。




