第42話 包丁技師のセンサーと止まる刃
昼前の鳴海解体工房へ入ると、冷えたステンレスの作業台に見慣れない銀色の計測器と細いケーブルが並んでいた。
起き抜けにリンから今朝の湾岸を無事に終えたと短い連絡を受け、俺はよく休めた指先で包丁ケースの留め金を確かめる。昨日から止まったままのまな板の代わりに、今日は小さなモニターが青い光を灯していた。
「お待ちしておりました、真壁さん。こちらが、ミルズ機関で包丁の応力解析と試作加工を担当していた佐伯湊さんです」
鳴海に紹介された若い技師――佐伯湊は、白衣ではなく油染みのついた作業ベストを着ていた。眼鏡の奥の目を細め、俺の包丁ケースへ真っ直ぐに視線を向ける。
「佐伯湊です。ミルズ審査員から、あなたの断面と手元の話は何度も聞いています。今日は神業を拝みに来たんじゃありません。入職半年目の若手でも手首の腱を壊さないための『数字と形』を取りに来ました」
「真壁巧だ。理屈で手首が守れるなら大歓迎だよ。よろしく頼む、佐伯さん」
作業台の脇では、昨夜医師の診察を受けて手首に固定サポーターを巻いた二人の若手が、記録用のタブレットとストップウォッチを片手に控えていた。包丁を握るのは、無傷の若手一人だけだ。
湊は保冷庫から出した初期検体の一本目――鉱脈鹿の後ろ脚を、ステンレス製の専用固定具にがっちりと固定した。重い脚を人の手で押さえずに済む治具だ。
「まずは昨日、私が計測した浅腱の安全進入角――二十二度で、彼に切ってもらいます。包丁の柄には六軸の荷重センサーと加速度計を付けてあります」
湊の合図で、無傷の若手がセンサー付きの包丁を握り、固定された後ろ脚の関節へ刃を当てた。
スーッ、と表層の浅い腱までは綺麗に刃が入った。
だが、その数ミリ奥にある乳白色の二重腱に刃先が触れた瞬間――カツン、と硬い音がして刃がピタリと止まった。
ピピピッ! とモニターが赤い警告音を鳴らす。
「ストップ! 力を抜いて!」
湊が素早く止め、若手はハッと息を呑んで包丁を離した。
モニターの画面には、刃が止まった瞬間に手首の背屈方向へ跳ね上がった、鋭いスパイク状の波形が表示されていた。
「……駄目か。表層の浅腱に合わせた二十二度のまま押し込むと、深部の鉱物質を含んだ二重腱の繊維に刃先が直角に噛んでしまう。ここで刃が止まった反作用が、逃げ場を失って手首の腱へまともに跳ね返っています」
「俺も……今、無意識に手首を固めて上から押し込もうとしてました」
記録係の元後輩が、モニターの数値と手元の映像をタブレットへ書き留めながら唸った。
湊は唇を噛み、グラフの赤い頂点を睨みつけた。
「角度を浅くしすぎれば表面で滑るし、立てれば深部で止まって手首に跳ね返る……。真壁さん、あなたの包丁にこのセンサーを付けて、同じ一本目の脚のまだ切っていない腱に刃を入れてもらえますか」
「ああ、構わないぞ」
俺は自分のケースから、現役で使っている二番手の骨スキ包丁を取り出した。
湊が手早く柄の背と腹に小型センサーを固定し、ケーブルをモニターへ繋ぐ。
俺は固定具に据えられた後ろ脚の前に立ち、先ほど若手が切って断面が不揃いに傷んだスネ肉のすぐ隣、まだ手つかずの腱の束に左手の指先を添えた。
「いくぞ。手元だけじゃなく、右の肘も見ておいてくれ」
刃先を浅腱へ乗せる。
スッ、と表層が開き、直後に刃の腹へ「カチリ」と硬い二重腱の感触が伝わってきた。
俺はそこで手首を固めず、右肘の力をふっと抜いて脇を緩めた。包丁の柄の腹を親指の付け根の膨らみ――母指球の上でわずかに転がすようにして、刃が腱に当たる支点を手前から奥へと滑らせる。
チリ、と微かな音がして、硬質な二重腱が抵抗なく左右へ割れた。
モニターを見つめていた湊が、息を呑んで画面へ顔を近づけた。
「……手首のスパイクが消えた。いや、反作用がなくなったんじゃない……深部腱に当たった瞬間、荷重が柄の腹と固定具の受け皿へ逃げてます。その母指球の送り、包丁側の形に置き換えられるか……?」
「俺の肘の癖をそのまま真似しろって言っても、半年目の手には酷だからな。それに、この低い波形はあくまで無傷の手で逃がした数字だ。サポーターの二人の手首がこれで治るわけじゃない」
俺はセンサーを外しながら、最初に若手の刃が止まった時に傷ついたスネ肉の端を切り分け、低温の保冷バットへ移した。外側の硬い不可食の外皮クズだけは廃棄缶へ捨てる。
「このスネ肉は断面が少し荒れたが、低温管理で衛生面は問題ない。別のバットで保冷しておいて、後でじっくり煮込む賄いに回そう」
「はい、別枠で保冷記録を付けておきます!」
そこへ鳴海が、工房の奥のコンロから香ばしい匂いをさせて盆を運んできた。
網の上でパリッと焦げ目をつけた醤油だれの焼きおにぎりと、湯気の立つ熱い番茶だ。
「ちょうど昼時です。少し腹に入れてから、午後の相談をしましょう」
「うわ、いい匂い……いただきます」
湊も油のついた指先をウエットティッシュで拭き、温かい焼きおにぎりを一口かじった。焦げた醤油の香ばしさと温かい米の甘みが広がり、張り詰めていた計測作業台の空気がふっと緩む。
だが湊は、おにぎりを飲み込むとすぐにモニターの波形グラフの一点を指差した。
「真壁さん、今の肘の抜き……手首で押す代わりに柄の腹で自重を転がしていますね。この重心移動、まず浅腱用の柄のバランスに組み込ませてくれますか」




