第41話 夕暮れの工房と止めた伝票
午後六時半。夕闇が降り始めた工業区画の一角で、鳴海解体工房のシャッターが半分だけ開いていた。
くぐり抜けた作業場には、消毒液と冷気の匂いが漂っている。いつもなら夕方の仕舞い際まで響いているはずの、骨スキが関節を割る音も、まな板を洗う水の音も、今日は止まったままだ。
今朝の報告を受けてから仮眠と昼の休養で目と指の感覚を戻してきた俺は、湾岸で透と明日からの仕込みを終えて合流したリンと一緒に、静まり返った床へ足を踏み入れた。隣を歩くリンの袖口には、まだかすかに生姜の香りが残っている。
「真壁さん、天宮さん。お忙しいところ、ありがとうございます」
出迎えた鳴海の背後で、三人の若い職人が丸椅子に腰掛けていた。
そのうちの二人――俺がかつて同じ職場で背中を見ていた元後輩の青年と、もう一人の若手職人が、濡れタオルで包んだ氷嚢を利き手の手首に当てている。残る一人、入職して半年になる一番若い職人だけが、無傷の両手を膝の上で固く握りしめていた。
「久しぶりだな。どれ、手首を見せてみろ」
「真壁先輩……すみません、情けないところをお見せして」
元後輩の青年が、苦しげに眉を寄せて氷嚢を外した。
親指の付け根から手首の外側にかけて、皮膚が赤く熱を持って腫れ上がっている。俺は指先で触れず、腫れの輪郭と指の浮き方だけを目で確かめた。
「包丁を握ろうとすると、親指の付け根から肘まで電気が走るみたいに痛むだろう。もう一人も同じだな」
「はい……今朝の二頭目で、深いところの腱に刃が噛んだ瞬間、手首ごと持っていかれました」
俺は頷き、ステンレスの作業台に置かれた保冷バットへ視線を移した。
そこには、北の還流層から届いた『鉱脈鹿』の未切断の後ろ脚が二本と、太いネック部位が一本、氷の上に並んでいる。
ニトリル手袋をはめた指先で、後ろ脚の関節周りを覆う白い腱を軽く押した。
表面の浅い腱は、普通の鹿より少し張りが強い程度だ。だが、そのすぐ下にある深部の二重腱に触れた瞬間、爪先に硬質な石を撫でたような冷たい抵抗が返ってきた。
「……表の浅い腱は普通の角度で入る。だが、すぐ下の二重腱が鉱物質を吸って結晶みたいに硬くなってるな。しかも繊維が二重に捻れてる」
「……うん。上から押したら、刃が滑るか、止まる」
隣から覗き込んだリンが、短く核心を突いた。
俺が指先で腱の継ぎ目を辿ると、表層の柔らかい繊維のすぐ裏に、刃先を食い止める硬い壁が潜んでいるのがわかる。ここへ手首を固定したまま力任せに刃を押し込めば、行き場を失った反作用がすべて職人の手首の腱へ跳ね返る。
作業台の端には、大口取引先からの納品伝票の束と、まだ手つかずの受注表が置かれていた。
鳴海はその伝票と、氷嚢を当てた二人の手首を交互に見つめ、やがて深く息を吐いて受話器を取った。
「――もしもし、鳴海解体工房の鳴海です。明日納品予定の鉱脈鹿の大口ロットですが、当工房での作業を一時停止させていただきます。はい、違約金と代替手配の差額はすべて私どもの口座から引き落としていただいて構いません。職人の手首に怪我が出ました。安全に捌ける手順が確立するまで、そのままで現場を回すわけにはいきません」
電話の向こうから強い声が漏れてきたが、鳴海の背筋は少しも揺らがなかった。
受話器を置いた鳴海は、立ち上がりかけた二人の若手を手で制した。
「お前たち二人は、これからすぐ整形外科へ行って医師の診察を受けてこい。診断と指示が出るまでは冷却と固定、休養を最優先にする。いいか、包丁を握るのはもちろん、未負傷の彼のために重い脚を押さえる保持補助も一切禁止だ」
「えっ……で、でも親方、保持補助くらいなら片手でも――」
「駄目だ。片手で重い脚を支えれば、荷が動いた拍子に無意識で痛めた手首へ力が入る。急ぎの納品は今止めたから、残る彼一人に数を追わせることもない。医師に診せて、もう一度包丁を握れる手首へ戻すことだけを考えろ」
鳴海の静かだが有無を言わせぬ声に、二人の若手が目を見張り、それから悔しそうに唇を噛んで頷いた。
「それなら、その未切断の後ろ脚二本とネック一本は、初期検証の検体としてこのままうちの保冷庫で区分確保しておこう。診察の前に、まずは少し腹に入れろ。冷えたままだと気持ちまで沈む」
俺は作業台から離れた休憩卓へ移動し、持参した保温ジャーの蓋を開けた。
立ち上ったのは、すりおろし生姜と長葱をたっぷり効かせた、温かい豚スープの湯気だった。今朝鳴海がうちの本店用に納品してくれた通常規格の豚肉から、昼のうちに仕込んで取り分けておいた賄いだ。
リンが隣で、アルミホイルに包んだ握りたての塩むすびを皿へ並べていく。
「……生姜、多めに入れた。手首は冷やして、お腹は温めて」
「うわあ……いただきます!」
まだ包丁を握れる一番若い職人が両手で紙コップを受け取り、痛めていない方の手で元後輩たちもスープを啜った。
豚の甘い脂と生姜の辛みが喉を通り、強張っていた三人の肩からふっと力が抜けていく。塩むすびを頬張ると、ようやく若い顔に血色が戻った。
「美味いです、真壁先輩、天宮さん……。俺たち、手首が治るまでただ休んでるだけじゃなく、横で波形や角度の記録係をやります。観察なら目と片手でできますから!」
「ああ、頼むぞ。外から見てる方が、刃の止まる癖がよく見えることもあるからな」
俺が笑って頷くと、二人の顔に確かな光が灯った。
紙コップを置いた鳴海は、閉じた伝票の脇で保冷庫へ収められる鉱脈鹿の後ろ脚を見つめ、静かに口を開いた。
「真壁さん……私の研ぎだけでは、彼らの手首に返る衝撃を逃がしきれません。明日、ミルズ機関出身の包丁技師が計測器を持ってここへ来ます」
明日の合流時刻を鳴海と確かめ合い、午後八時半、俺とリンは今夜の営業が待つ防波堤へ戻るために工房の表へと出た。
俺は夜の風を吸い込みながら、明日の昼前に現れるという技師の顔を思い浮かべた。




