第40話 夜明けの防波堤と空寸胴のつくね汁
午前六時。東の海から昇り始めた朝日が、防波堤のコンクリートを淡い橙色に染めていく。
湾岸の特設区画から『まかべ食堂』本店の前へ戻った俺とリン、透、こはくの四人は、洗い場に三つの空寸胴を並べ、ホースで勢いよく水を張った。ガルシアは湾岸で風防の撤収を手伝った後、「また今夜、本店へ来ますね」と軽やかな足取りで引き揚げていった。
「くうっ、これだけ綺麗に空っぽになると、洗う手も軽いな! 底の焦げ付きもねえぞ!」
「……うん。透が火力を落としてくれたおかげ。タワシで撫でるだけで落ちる」
透とリンが肩を並べて寸胴を洗い上げ、俺がコンロの五徳とレードルを拭き上げていく。
洗い物をすべて伏せ終えたところで、俺は小鍋に移して保温しておいた寸胴の底の予備――背ガラ白湯五百ミリリットルと、生姜粥四百ミリリットルを一つに合わせ、弱火で温め直した。
四つの椀によそい分け、湯気の立つ締め椀を折りたたみテーブルへ並べる。
「ほらよ、熱いぞ。お疲れさん」
「いただきます! うわあ、一番底の白湯とお粥が混ざって、とろっとろになってますよ!」
こはくが両手で椀を包み込み、ふうふうと息を吹きかけて啜る。
俺も一口飲んだ。百五十人分を炊き上げた鍋底の旨味と米の甘み、生姜の香りが、潮風で冷えた指先から腹の底へじんわりと染み渡っていく。
透は両手で椀を持ったまま立ち上る湯気をじっと見つめ、それから底まで一気に飲み干した。
「……っ、うめえなあ。自分の屋台で一人で意地を張ってた時は、店を閉める頃には腕もパンパンで、こんなふうに誰かと賄いを食う余裕なんてなかった」
空になった椀をテーブルへ置き、透が真っ直ぐに俺とリンを見た。
「大将、リンさん。……これからも朝の鍋、よろしく頼む」
「……こちらこそ。透となら、毎朝百五十人に出せる」
リンも椀を置いて静かに頷く。
四つの椀が空になり、こはくが「ごちそうさまでした! 私、三脚とカメラのバッテリーを車へ片付けてきますね」と器を重ねて洗い場へ立った。
テーブルに残った俺は、足元に置いていた手提げ金庫と、二号車のカウンター下から出しておいた透明なアクリル製の箱をテーブルの真ん中へ置いた。
蓋を開けた金庫の中には、硬貨の袋と一緒に一枚の伝票と二つの茶封筒が収まっている。
「今日で俺の窓口番は終わりだ。金庫とそいつは、明日からお前たち二人の持ち場になる」
透がアクリル箱の上にある細い投入口と番号札のトレイを見て、それから金庫の中の伝票へ目を落とした。
透が自分の前に置かれた茶封筒を取り上げ、中身の札を確かめてぎょっとしたように顔を上げた。
「おい大将、二万三千五百円も入ってるぞ! 二号車側と俺の屋台で、きっちり半分ずつじゃねえか。俺は二号車の保冷庫もコンロも使わせてもらって、今日は大将まで窓口に立ってくれたんだぞ。同じ額を受け取っていいのかよ」
透が封筒を金庫へ戻そうとする。
リンは自分の茶封筒を金庫の二号車用の仕切りへ丁寧に納めると、金庫の底に残された札と小銭の束を指先で軽く押さえ、透の封筒を押し返した。
「……保冷庫の電気代と、ガスと、道具の維持費。この端数の五千二百七十五円で、共通金庫に残してある。さっきの契約書も、透と私の名前を並べた。相乗りじゃない」
「リンさん……」
透は押し返された茶封筒に指先を添えたまま、言葉を呑んで目元を緩めた。
俺は湯呑みの番茶を一口飲み、透明なアクリル箱を二人の間へ押し出した。
「俺が窓口に立ったのは本審査の今日だけだ。明日からはその前払い食券箱に働いてもらう。客に自分で五百円玉を落として札を取ってもらえば、硬貨を数える手は省けるからな」
「なるほど、こいつを窓口に置くのか。……なら、盛り付けの後の受け渡しはどうする?」
透が食券箱の投入口へ視線を移して訊ねると、リンが箱と手提げ金庫を自分の手元へ引き寄せた。
「……硬貨の目視とトレイ渡しは、器を仕上げたそのままの手で私がやる。透は右の鍋を止めないで」
「よし、それなら手元のリズムも今日と同じままだな」
「俺が同行しない明日からは、鳴海工房の外注費三千円は全額うちの四十食側で持つ。ただ、組合の契約書が約束してくれるのは毎日二十キロの端材が届くことだけで、毎朝百五十人が並ぶ保証はどこにもない。湾岸でどれだけ残せるかは二人の鍋次第だぞ」
「二人だけで、回せる」
「おう。……ありがたく受け取っておくぜ、大将、リンさん。明日も冷めねえうちに百五十人分、きっちり売り切ってやる」
透が茶封筒を作業着の胸ポケットへ深くしまい込み、立ち上がって大きく肩を回した。
「よし。十三時に最初の二十キロが届く前に、宿舎へ戻ってひと眠りしてくるぜ。午後の仕込みで手が鈍っちゃ洒落にならねえからな」
「ああ。昨夜の六時間だけじゃまだ足にくるだろう。一時間半はしっかり目を閉じておけよ」
俺たちも席を立ち、戻ってきたこはくと手分けして折りたたみテーブルを畳んだ。脚の留め金を外しながら、リンが小さくあくびを噛み殺す。午後の仕込みに立つ前に、リンも俺も控室で少し目を閉じておくつもりだった。
四人で空の保冷ケースを軽バンへ積み込んでいた、午前七時前のことだった。
防波堤の坂道を、一台の保冷トラックがゆっくりと上がってきた。今夜の本店営業で使う通常規格の豚肉を納品に来た、鳴海解体工房のトラックだった。
「おはようございます、真壁さん、天宮さん、伊吹さん。湾岸の本契約成立、おめでとうございます」
運転席から降りてきた鳴海は、いつもの慇懃な口調で祝いの言葉を述べたが、その眉間には深い皺が刻まれていた。
荷台から一次処理済みの豚肉のケースを下ろし終えると、鳴海は少し離れた場所で片付けを続ける透とこはくの方を一瞥し、俺とリンの前で深く頭を下げた。
「真壁さん……実は、先日お話ししていた北の還流層から入る『鉱脈鹿』の件なのですが。今朝の作業で、あの硬い二重腱を捌いていたうちの若手が二人、手首の腱を腫らして包丁を握れなくなりました」
ケースを受け取っていた俺の手が止まり、隣でリンが眉を寄せた。
「真壁さんに教わった腱の外し方を、私の口から若い衆へ伝えてはみたのです。ですが、個体ごとに微妙に違う腱の捻れを『指先の感覚で逃がす』という加減がどうしても伝わらず、力でねじ伏せようとして手首に跳ね返りを受けてしまいまして……」
作業着の裾を握る鳴海の指先が、白く強張っている。
「二人の手首は」
「今は作業を止めさせ、冷やして休ませています。私の教え方が至らなかったばかりに、彼らの身体に無理をさせてしまいました」
「自分を責めるのは後だ、鳴海。約束通り、今日お前の工房へ見に行くよ」
鳴海が顔を上げた。俺は豚肉のケースを冷蔵庫の前へ置き、静かに続けた。
「ただ、この足ですぐには行かない。これから朝の仮眠を取って、昼の休憩も済ませてからだ。リンも午後の湾岸の仕込みがある。寝不足の鈍った目と手じゃ、腱の跳ね返りは読めないからな」
「……っ、はい! ありがとうございます、真壁さん。夕方、工房でお待ちしております」
もう一度深く頭を下げ、トラックへ戻っていく鳴海の背中を見送る。
荷積みを終えた透とこはくを送り出すと、防波堤には朝の光が満ち、海鳥の鳴き声が遠くで響いていた。
「……リン、俺たちも控室へ入るぞ。夕方までに、目と指を戻しておかないとな」
「……うん。少し、寝る」
俺たちは本店の戸締まりを済ませ、潮風の音が遠ざかるプレハブの控室で、ひとまず短い眠りへと就いた。
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