第37話 決戦前の六時間睡眠と三口コンロの点火
十一日目の午後八時に防波堤のプレハブ控室へ入ってから六時間。十二日目の午前二時に目を覚ますと、昨日の仕込みで張っていた背中の重さは綺麗に抜けていた。湾岸の宿泊休憩所で同じく午前二時まで前倒しの休養を取った透も、今頃は向こうで動き出しているはずだ。
俺はリンと並んで配信機材を落としたままの本店へ入り、豚汁の寸胴に火を入れて炊きたての飯を蒸らした。午前二時十五分、事前告知の貼り紙を出していた通り、『まかべ食堂』本店の窓口を二十五食限定・一時間だけの臨時営業として押し開ける。
「大将、今朝はいよいよ湾岸の百五十食本審査だそうだな!」
「ああ、おかげさまでな。今日の二十五食を出したらすぐ向かうよ」
俺は鳴海工房が一次処理してくれた通常規格豚三千七百五十グラムを使い、常連客二十五人へ熱々の賄い丼と豚汁を出し切った。
一番乗りで並盛りを完食したガルシアが、口の端を拭いながら立ち上がった。
「ハイ、ワタシ、常連。今朝は湾岸の百五十人、すごい列になりますね。列整理と風防の設営、手伝います!」
「助かるよ、ガルシア。じゃあ俺たちの軽バンに一緒に乗ってくれ」
俺たちが本店で二十五食を回している間、湾岸夜市の仕込み区画では、事前の計画通り透が午前二時十分から一足先に現場へ入っていた。
四度以下で冷え固まった特製生姜粥と背ガラ白湯の大寸胴二つに、一次下茹でを済ませた四百五十個のつくね。ゼラチン質の白湯と粘りのある粥は、急いで強火に当てれば鍋底が焦げ付き、中心まで熱が揃わない。百五十人分の鍋を傷めずに提供温度へ乗せるため、今朝は透が先行して三口コンロに火を入れ、約八十分かけて段階的に湯煎と弱火から立ち上げる手筈になっていた。
保冷庫の記録と合流後の報告の通り、透は午前二時十分に久世の封印シールと四度以下のログを確かめ、右端の屋台コンロにつくね再加熱用の大鍋を準備し、左端の二号車右コンロに生姜粥、中央の左コンロに背ガラ白湯の寸胴を乗せた。まだ暗い埠頭で一人、弱火と湯煎の穏やかな火加減で固まった出汁を解きほぐし、底を焦がさないよう長い木べらで丁寧に返しながら、ゆっくりと温度を引き上げていった。
そして午前三時十五分に本店を閉めた俺とリン、ガルシアが、午前三時三十分に湾岸の特設合同区画へ合流した。
「大将、リンさん! ちょうど今、両方の寸胴が八十度を超えたところだ!」
「よく一人で火を見てくれたな、透。ここからは三人で仕上げるぞ」
俺が温度計を差し込むと、八十分かけてじっくり温められた生姜粥と白湯は、一滴の焦げ臭さもなく均一に対流していた。
右端の透の屋台コンロ(一口目)の大鍋にも湯が沸き立ち、保冷庫から最初のロットの下茹でつくねが投入される。
ガルシアは岩のような巨体で海風を遮りながら、屋台の周囲に頑丈な風防パネルを固定し、百五十人が並べるよう待機列のロープを手際よく張り巡らせてくれた。
「風防の固定、完了しました。番号札もいつでも配れますよ」
「……ありがとう、ガルシア」
午前三時三十五分。
脚立の上にセットされたこはくのカメラの赤いランプが灯り、音声最小・三口コンロの手元と湯気だけを映す深夜定点配信がONになった。
画面の向こうの視聴者には、暗い夜明け前の埠頭に並ぶ三つの大鍋と、そこから立ち昇る真っ白な湯気、そしてコトコトと粥が煮える心地よい環境音だけが届いている。
『お、始まった!』『今日は鍋が三つ並んでるぞ』『画面の湯気だけで腹が減る……』『夜勤明けにこの音はたまらん』
静かなコメントが流れ始める中、午前三時四十分、久世と卸組合代表が記録バインダーを手に厨房横へ立った。
久世が三つの鍋に順番に温度プローブを差し込む。
「……つくね再加熱鍋八十八度、背ガラ白湯寸胴八十九度、特製生姜粥寸胴八十七度。すべて八十五度以上の提供基準をクリアしています。保冷庫の保管温度も四度以下で異常なし!」
検温完了の声に、俺は保温ポットから熱い生姜番茶を五つの紙コップへ注ぎ、リン、透、こはく、ガルシアへ配った。
カメラの画角外で、五人で静かに紙コップを合わせる。
一口飲むと、番茶の温かさが胸の奥へ落ち、張り詰めていた肩の力がすっと抜けていった。
「いいか、前半の八十人と後半の七十人も、それぞれ作業班ごとに数分おきに上がってくる。俺が五百円硬貨の受け取りと盆出しを受け持つから、透とリンは自分の鍋とレードルだけに集中しろ」
「おう! 一口目のつくねと二口目の白湯は、俺が一秒も止めねえ!」
「……うん。三口目の生姜粥と仕上げの香り、私に任せて」
二人がレードルを構えた、その時だった。
午前三時四十五分。
埠頭の照明灯の下から、夜間荷揚げの第一便を終えた港湾労働者たち――前半八十人の先頭を切る最初の作業班が、白い息を吐きながら合同屋台の前へやってきた。




