第30話 五十食完売の湯気と百五十食への挑戦状
東の空が群青色に白み始める午前四時四十五分。
列の最後尾に久世さんと卸組合長が並んだのに気づいても、リンと透の手元は一切乱れなかった。
「……残り二十。スープの温度、よし」
「おう、最後の波だ、一気にいくぞ!」
透が沸騰鍋から熱々の扁平つくね三個を湯切りして椀へ落とし、リンが白湯百八十ミリリットルと黄金鶏油二ミリリットル、首皮チップ二グラムを正確に重ねていく。
列は滞ることなく進み、午前五時五分――開始からちょうど八十分で、最後の五十食目となる一杯が、列のしんがりにいた久世さんの手へと渡った。
「三百円、確かにいただきます」
俺が硬貨を受け取ると、久世さんはまず携帯端末で発泡椀のスープ温度を測り、それからレンゲで白湯を啜って、軟骨つくねをじっくりと噛み締めた。
コリッ、ポリポリッという小気味よい音が鳴り、久世さんが静かに目を閉じて頷く。隣で半分分けてもらった卸組合長も、「おお……これがうちで毎日焼却処分に回しかけていたC級端材か。臭みも硬い筋もまるでねえぞ」と感嘆の息を漏らした。
「――本日分、五十食完売でーす!」
午前五時十分、こはくが元気よく声を上げて、調理台上の深夜定点カメラの電源をOFFにした。
画面が閉じる直前まで、『完売おつかれ!』『朝からいいもの見た、俺もコンビニで生姜スープ買ってくる』と温かいコメントが流れていた。
客足が引いた埠頭で、俺は白湯寸胴の底に予備として残しておいたスープを温め直し、保存容器の底に残った首皮チップをひとつまみずつ浮かべて、四つの湯呑みに注ぎ分けた。
つくねのバットも、鶏油のポットも、もう空だ。寸胴を傾けても、レードルには何も掛からなかった。
「まずは四人で乾杯だ。よく走り切ったな」
俺とリン、透、こはくの四人で、寸胴の一番底の濃い白湯を啜った。
働き切った後の冷えた潮風の中で、熱い生姜と鶏の甘みが疲れた喉から胃の底へと落ちていく。透が「……っ、くぅー、沁みるぜ……」と目を細めて長い息を吐いた。
湯呑みを置いたところへ、発泡椀を空にした久世さんがバインダーを開いて歩み寄ってきた。
俺は小銭入れの横に添えてあった精算メモと、昨夜からの温度記録シートをカウンターへ差し出した。売価三百円で五十食を出し切った売上高一万五千円から、未処理の残り分も含めて全額落とした端材十キロの仕入れ代と外注の試験按分、容器やガス代をすべて差し引いても、労務配分前の余剰が八千三百七十五円残っている。
久世さんは増設保冷庫の四度以下のログと、中心部七十五度一分以上の加熱記録を順に照合し、バインダーへ太いチェックを入れた。
「衛生記録、ピーク八十分での五十食無遅刻提供、それに実食した品質と採算性。すべて基準を満たしています。……第1段階の実地審査は合格です」
透がパッと顔を上げた。久世さんは一拍置いて、視線を二号車と透の屋台へ交互に向けた。
「では予定通り、三日後の十二日目朝、第2段階である『二十キロ一括ロット・朝百五十食規模』の最終本審査へ進みます。そこをクリアすれば、毎朝二十キロの定期買い取り本契約を正式に結びます」
予定されていた次の数字を前に、透は空の湯呑みを置いて、隣に並ぶ自分の屋台と、湯気の消えた二号車の寸胴を交互に見比べた。今朝の五十食を二人で立て直して回し切った熱が、まだその指先に残っている。
透はふっと息を吐き、俺とリンの前へまっすぐ向き直った。
「……今朝の五十杯でよくわかったよ。一人で抱えて詰まりかけた手元も、仕上げを委ねて沸騰鍋に徹したから最後まで出し切れた。本番も俺が種を叩いて湯を回し続けたいが、うちの屋台の火口と保冷だけじゃ、次の波は捌ききれねえ」
言い切る声に迷いはなかった。透は銀髪の少女を正面から見据え、湿布の貼られた右手を差し出した。
「だが、隣にリンさんのレードルがあるなら届く。三日後の百五十食も、ここで終わりにしたくねえんだ。リンさん、大将……本番も、俺を二号車の隣で一緒に戦わせてくれ!」
「……うん。もちろん」
リンは迷わず一歩踏み出し、差し出された透の右手首の湿布の横に、自分の白い手を重ねた。
「……百五十人なら、汁物だけじゃお腹が保たない。次は、つくねにうちの生姜粥も合わせて、本当の朝ごはんを出す」
「おう! 望むところだ!」
頼もしい二人の握手を見届けていると、久世さんがふと声を潜めて俺の隣へ寄ってきた。カメラはすでに切れている。
「……それと真壁さん。審査とは別の件ですが、流通機構の窓口へ、鳴海さんの解体工房から少し気がかりな連絡が入っています」
「鳴海から?」
「ええ。先日の通常規格豚の一次処理は問題ないのですが、別ルートで入ってきた硬質な『還流期の鉱脈鹿』の二重腱処理で、工房の若手職人たちの手首にかなりの負荷が溜まっているそうです。以前、真壁さんにも少し相談があった件かと」
俺は七日目の夜、鳴海が予備包丁を届けてくれた時にこぼしていた言葉を思い出した。あの時はまだ「少し手首に負担がかかっている」という話だったが、やはり限界が近づいているらしい。
「わかった。十二日目の朝、この湾岸の本審査をきっちり片付けたら、その足で鳴海の工房へ刃筋を見に行くよ」
すっかり日の昇った埠頭で、俺たちは午前六時三十分までに鍋と作業台の片付けを終えた。二号車の保冷庫に未処理の端材二千五百グラムを四度以下で残したまま防波堤へ戻り、午前七時から八時三十分まで、プレハブの控室で朝の仮眠を取って冷えた身体を休めた。




