第3話 琥珀の断面と最初の一太刀
白瀬こはくが固定した小型の接写カメラが、まな板の上で静かにピントを合わせた。
時刻は午後九時十分。防波堤に停めた本店トラックの調理台で、画角に収まっているのは俺の手元とデジタル温度計、そして経過時間を刻むストップウォッチだけだ。
「検証配信、繋ぎます。画面の隅に『還流猪・開封後三十分硬化検証』のテロップとタイマーを出しました。三、二、一……オンエアです」
モニターの隅で、待機していた世界中の視聴者や職人たちのコメントが流れ始める。
調理台の脇には白衣を着た久世が立ち、ロットの検査証明と、ここまで摂氏零度から二度で保冷されてきた温度記録の確認を終えて頷いた。
「現在時刻、二十一時十五分ちょうど。これより無酸素パックを開封し、三十分の計測を開始する」
久世の合図と同時に、俺は真空パックの端をハサミで切り開いた。
シュッ、と小さな音を立てて外気が袋の中へ流れ込む。
まな板の上に現れたのは、総重量三千三百グラムの塊――二千五百グラムの分厚い本ロースと、その脇に連なる八百グラムの付随背脂だった。
『おお、これが噂の還流猪か』
『表面の膜、本当に琥珀みたいに透き通ってるな』
『テロップ見たぞ。空気に触れて三十分で硬化するってやつか』
俺は手元の二番手の骨スキを握った。
最初に狙うのは本ロースの膜ではない。空気に触れて変質が始まる前に、結晶膜が被っていない内側の付随背脂を無傷で救い出すことだ。
「リン、氷温バットを」
「……ん。いつでもいける」
骨スキの切っ先を、本ロースと背脂の境目にある薄い筋膜へ滑り込ませる。
スッ、と音もなく刃が走った。
まだ開封から数分しか経っていない背脂は、真珠のような瑞々しい艶を帯びている。刃先に余計な力をかけず、肉の重みだけで継ぎ目を解くように刃を進めていく。
二十一時二十三分。開封から八分あまりで、八百グラムの付随背脂が一点の曇りもなく切り離された。
久世が素早く中心温度とpH計を当て、当日の外観と匂いに異常がないことを確認する。
「付随背脂、深部温度一・八度、pH五・七。結晶膜の干渉なし。食用適合だ」
凛がすかさずその背脂を受け取り、冷やしておいたバットへ収めてラップを密着させた。これでまず、今夜の豚汁用の出汁脂は守られた。
「……よし。ここからが本番だ」
時計は二十一時二十五分。開封から十分が経過していた。
俺は包丁を二番手の筋引に持ち替え、残る二千五百グラムの本ロースに向き合った。
表面を覆う琥珀色の結晶膜は、開けた直後よりもわずかに粘度を増し、照明の光を鈍く跳ね返している。
普段の豚肉の皮引きと同じように、ロースの端の膜を指でつまみ、真皮と膜の境目に筋引の鋭い刃先を寝かせて入れた。
最初の一センチは、すんなりと進んだ。
だが――。
ギチ、と嫌な感触が指先に伝わった。
『ん? 今、大将の刃が止まったぞ』
『真皮の上なのに、下の脂が一緒に持ち上がってる……!』
時計の針が、開封から十五分を過ぎた二十一時三十分を指していた。
空気に触れた結晶膜が、生乾きの松脂のように刃の側面へねっとりと絡みついてくるのだ。しかも膜が縮みながら、すぐ下の真皮と琥珀脂を強く引っ張り上げている。ここで無理に刃先を進めれば、膜の下にある一番旨い脂の層ごとザックリとえぐり取ってしまう。
「……刃が立つほど、膜が逃げるな」
俺は骨スキに持ち替え、切っ先で少しずつ膜を剥がそうと試みた。
しかし、二分、三分と時間が経つにつれ、琥珀色の膜は目に見えて白っぽく濁り、端から硬直し始めた。
『断面カメラ見てみろ、膜の色がどんどん曇ってる!』
『うちの工房でもあそこで刃を寝かせ直して、赤身まで持っていかれたんだ……』
同業の解体師たちの痛切なコメントが画面を流れていく。
額の汗を拭う間も惜しんで角度を変え、刃の入れ方を変えて食い下がった。だが、二十分を過ぎた頃には、膜は包丁の切っ先をカツカツと弾く硬質な殻へと変わっていた。
試しに端の五センチほどを真皮の下から力任せに削り取ってみると、分厚い琥珀脂と赤身の表面がごっそりと膜の裏に張り付いて剥がれてしまった。
ピピピッ、と無情な電子音が調理台に響いた。
二十一時四十五分。開封から三十分が経過した合図だった。
俺は包丁を止め、静かに息を吐いた。
まな板の上の本ロースは表面全体が硬い殻に覆われ、端の断面からはすでに酸化した脂の渋い匂いが立ち始めていた。
「……時間切れだ。久世さん、計測をお願いします」
久世が一歩前に出て、ロースの表面硬度と削り取った端材の割合を測り、記録用紙にペンを走らせた。
「二十一時四十五分、結晶膜の完全硬化を確認。従来の刃先による剥離では、推定歩留まり五十八パーセント。品質規格の八十パーセント基準に遠く及ばず、また脂層の渋み化により営業提供は不適合と判定する」
こはくがモニターの脇で悔しそうに唇を噛みながらも、計測の手元からカメラを逸らさずに記録を撮り切る。俺は硬化した本ロースを検証用の別ケースへ移し、まな板と包丁を湯で綺麗に洗い上げた。
「負け惜しみはなしだ。今のまま刃先で追いかけても、この猪の一番いいところを捨てることになる」
顔を上げ、隣で氷温バットを抱えていた凛を見た。
「だが、最初の八分で切り離したこっちの背脂は無傷だ。久世さん、この背脂は営業に使っても問題ありませんね?」
「ああ。硬化前に切り離したその部位には渋みも移っていない。十分に加熱すれば提供可能だ」
俺は頷き、大寸胴に水を張って火を入れた。
「なら、今夜の営業用の四十椀と、俺たちの賄い二椀――合わせて四十二椀分の澄まし豚汁をこいつで仕込む。リン、ゴボウと大根を頼む」
「……了解。切る」
検証配信のカメラを切る前、俺は別ケースの中で硬直した膜をもう一度だけ見つめた。
刃先で切るから絡みつく。なら、切る以外のやり方を探すまでだ。




