第2話 通常規格の誇りと三十分の壁
ガラス張りの廊下の向こうで、白衣の作業員たちが一定の速度で流れるコンベアの枝肉を切り分けていた。
室温は摂氏十度以下。壁のモニターには、各ロットの深部温度と適合ランプが整然と緑色に並んでいる。
「騒々しい場所だが、ここが毎日数万食の肉を街へ送り出す心臓部だ」
午後二時。湾岸エリアにある広域鮮度流通機構の第一検査室で、ひと眠りしてから足を運んだ俺と凛を、久世がステンレス卓へ案内した。
室内には配信カメラは持ち込んでいない。卓上には、白い札と赤い札が付いた二つのバットが置かれていた。
久世はまず、白い札が付いた方の蓋を開けた。
「最初に、我々の標準ラインが処理した通常規格の並豚バラ肉を見てほしい。特級解体師の手仕事ではないが、討伐後の血抜きから予冷、無酸素包装、ロット別の衛生検査まで、手順通りに管理された肉だ」
俺は清潔なトングで一切れを持ち上げ、断面を見た。
ドリップはほとんど出ていない。赤身と脂身の境目が鮮やかな桜色をしており、機械刃の角度が適正に保たれているのが一目でわかる。
久世が備え付けの卓上グリラーで、そのバラ肉を数枚、味付けなしで中心まで焼き上げた。
「食べてみてくれ」
焼き上がったばかりの並豚バラ肉を口へ運ぶ。
噛み締めると、クセのない赤身の旨味と、さらりとした脂の甘みが素直に広がった。飛び抜けた芳香があるわけではないが、毎日食べても飽きない、安心できる豚肉の味だ。
「……綺麗なお肉。臭み、全然ない」
「厚みも筋目も綺麗に揃ってますね。火を入れた時に反り方が均一だから、忙しい鉄板の上でも焼きムラが出ない。これだけ真っ当な並肉が毎日安く入るから、うちの店も五百円で飯を出せるんですよ」
俺がトングを置いて言うと、久世は少し意外そうに目を見張り、それから口元の緊張をわずかに緩めた。
「……君のような腕利きの職人は、機械ラインの規格肉など見下しているものと思っていたよ」
「まさか。特別な一皿と毎日の飯は、どっちが欠けても困ります。――で、そっちの赤い札が、例の還流猪ですか」
久世は小さく頷くと、もう一つの赤い札が付いたバットの蓋を開けた。
そこに入っていたのは、無残に赤身がえぐれ、表面が黄色く乾いた還流猪の本ロースだった。バットの脇には、刃先が細かく欠けた機械用の丸刃が置かれている。
俺はバットの中のロースに顔を近づけ、擦りガラスのように白く濁った表面を爪で軽く叩いた。カツン、と乾いた硬い音がする。えぐれた断面からは、酸化した脂の渋い匂いが立ち昇っていた。
続けて、脇に置かれた機械用の丸刃を手に取り、蛍光灯の光に刃先を透かして見る。
「……妙ですね、久世さん」
「何がだ?」
「最初からこんな石みたいに硬かったなら、機械の刃は表面で滑って弾かれるはずです。なのにこの丸刃、真皮の奥へグッと食い込んだ跡があって、そこから刃先が欠けてる。切っている途中で、膜の手応えが変わったんじゃありませんか?」
久世の眼鏡の奥の目が、わずかに細まった。
「……刃の欠け方ひとつでそこまで読むか。その通りだ。機構の無酸素チャンバーで部位ごとに密封し、摂氏零度から二度で管理している間は、包装した時点から最大九十六時間まで昨夜のような透明な状態が保たれる。だが、現場で袋を開けて空気に触れた瞬間から時計が動くんだ」
久世は手袋の指で、深くえぐれたロースの断面を指差した。
「開封して十五分を過ぎると、硬化の前段階として膜の粘度が急激に増す。一定角度で走る標準ラインの丸刃が、その粘る膜に引っ張られて真皮の奥まで食い込み、三十分で膜が完全に硬化した時には、すぐ下の甘い脂層まで成分が染み出して強烈な渋みに変わってしまった」
隣でバットを覗き込んでいた凛が、欠けた丸刃とロースを見比べる。
「……赤身まで、ずいぶん抉れてる。これ、食べられる部分はどれくらい残ったの?」
「七割を切った。三割以上が削り取られて廃棄だ」
その数字を聞いて、俺は頭の中で即座に厨房のそろばんを弾いた。
「三割廃棄じゃ、定食屋の原価は一発で吹き飛びますね。……ですが久世さん、昨夜、事前培養検査は適合してると言いましたよね。衛生面で安全なら、渋くなった表面だけ厚めに落として、形不揃いの訳あり肉として卸す手はないんですか?」
久世は静かに、だがはっきりと首を振った。
「衛生面の検査適合と、市場へ卸す商品としての品質規格は別軸だ。考えてもみてくれ。近郊迷宮から上がる豚肉の三割近くが、すでにこの還流猪に置き換わり始めている。そんな主力部位が『三割捨てなければ使えない肉』のまま流通したら、君の店のような五百円の食堂はどうなる?」
「……仕入れ値が跳ね上がって、立ち行かなくなりますね」
「そうだ。だからこそ機構には、一般の工房や食堂へ卸すための最低ラインがある。可食部の歩留まりを八十パーセント以上残せること。これを満たせない肉に、通常流通の判は押せない」
俺は欠けた丸刃をバットの脇へ戻し、硬直した膜から久世へ視線を上げた。
「機械の丸刃が粘りに食われるなら、手作業の包丁で八割以上残して剥ぐ手順を探すしかありませんね。……ただ、俺一人の手元でギリギリ剥がせても、街の流通には乗らないでしょう。各地の現場へ降ろすには、三十分まるまる包丁を動かせるわけじゃないはずです」
久世は赤い札のバットの蓋に手を添え、低く応じた。
「話が早いな。現場には計量もあれば、包丁の持ち替えや袋詰めの時間も要る。三十分の硬化限界に対して現場の余裕を見込めば、開封から二十分以内に剥離を完了でき、かつ他の職人でも再現できる手順でなければ、制度としての流通承認は出せない」
久世はそのままバットの蓋を静かに閉めた。
「今のままどのテストでもこの基準を満たせなければ、明朝には本ロース部位を仮流通停止措置とする。そうなれば代替需要で、さっき食べた通常の並豚バラ肉の卸値まで一気に跳ね上がるぞ」
俺は白い札が付いた並肉のバットへ目を戻し、小さく息を吐いた。
「並肉の値上がりは、うちの死活問題だ。……久世さん、昨夜うちの保冷庫で預からせてもらった未開封の試験パック――あの三千三百グラムの包みを、今夜うちの調理台で捌かせてください。まずは通常の皮引きであの膜がどう反応してどこで詰まるのか、俺の手で確かめてみます」
検査室を出て搬入口へ向かうと、カメラバッグを肩にかけた白瀬こはくが待っていた。
俺から事情を聞いたこはくは、すぐに撮影ディレクターの目になってメモ帳を開いた。
「大将、それなら密室で試すんじゃなく、最初から検証配信として手元を公開しましょう! 結晶膜の断面角に小型の接写カメラを固定して、開封した瞬間からのタイマーと温度計を画面の隅に出すんです。ガチで全国の工房が同じ膜で困ってるなら、大将の刃が何分目でどう引っかかるのか、そのまま映像で残すのが一番の現場資料になります」
「配信か。だが、未確立の段階で失敗映像だけが独り歩きして、市場に無用な混乱や誤解を招くのは困るぞ」
眉を寄せる久世に、こはくはペンを止めて向き直った。
「煽るような編集は一切しません。手元と計測器の数字だけを映して、最初から最後までノーカットで流します」
久世はこはくの目を見て、短く頷いた。
「……いいだろう。それなら公開を認める。ただし、私自身がその場に立ち会い、深部温度と歩留まりを公式に記録する」
俺たちは今夜の営業で使う通常規格の並豚バラ肉五千グラムを正規の卸値で有償仕入れ、合わせて昨夜から預かっていた無償試験用の還流猪ロース包み三千三百グラムの保冷記録と検査証明を久世と照合し、本店の保冷庫へと積み込んだ。
勝負は今夜九時。開店前の調理台で、最初の一太刀を入れる。




