第1話 湯気の隣と琥珀の端切れ
寸胴の下で揺れていた青い種火を落とすと、防波堤を撫でる潮風の音が急に近くなる。
時刻は午前二時半。『まかべ食堂』本店の暖簾をしまった時点で、調理台の上の配信用カメラは電源を切ってあった。赤い録画ランプが消えた狭いカウンターには、出汁の名残と白い湯気だけが漂っている。
隣の駐車枠で、二号車の後部扉が静かに閉まる音がした。
コンロの元栓を確かめ終えた天宮凛が、白い息を吐きながらこちらのステップへ上がってくる。白に近い銀色の髪を無造作に束ねたその頬には、生姜を刻み続けたあとの微かな赤みが差し、左手の指で右の手首を軽くさすっていた。
「お疲れ、リン。隣、空いてるぞ」
「……うん。座る」
丸椅子を一つ引き出してやると、凛は肩の力を抜いて腰を下ろした。
目の前に、炊きたての白飯へ豚バラの端肉と甘辛い生姜ダレをかけた賄いの小丼を置く。湯呑みに熱い番茶を注いでやると、立ち昇る湯気の向こうで凛の目元がわずかに和らいだ。
「二号車の生姜粥、今日も一時過ぎには空になってたな。次回の米の吸水と生姜の仕込みまで、よく手が回った」
「……火を落とす時間、逆算した。巧に教わった通り。……でも、最後のほう、少し手首が張った」
俺は凛がさすっていた右手首の角度に目をやった。
「鍋底から一気に返そうとして、木べらを強く握り込んでるからだ。粥は押すんじゃなく、鍋肌に沿って手前へ引くだけでいい。ほら、冷めないうちに食え」
「……ん。次は、引く」
二人で並んで割り箸を割る。
生姜と醤油の煮汁が染みた飯を掻き込むと、深夜の立ち仕事で強張っていた背中がじんわりと解けていく。
凛は一口ごとに小さく頷きながら、小丼の底まで米粒一つ残さず綺麗に平らげた。空になった器を置き、番茶を一口啜って指先を温めてから、俺の袖口をちょんと摘まむ。
「……巧。二号車、今は深夜だけだけど。……いつか、背中を預けられる相棒を見つけたい」
「ほう。一人じゃ手狭になったか」
「……ううん。その人に、朝の仕込みと営業、任せる。そしたら、ふたりで、ゆっくり朝休みを取る。……新しい目標」
袖を摘まんだまま、凛が真っ直ぐにこちらを見上げてくる。
「朝飯を食ってから二度寝か。そいつは贅沢だな」
「……駄目?」
「いい目標だ。なら、まずは今の二号車をしっかり軌道に乗せないとな」
銀色の頭に手のひらを乗せて軽く撫でてやると、凛は俺の手の下で小さく目を細め、ほうっと静かな息を吐いた。
その時だった。防波堤の舗装路を、重いタイヤの音が近づいてくる。ヘッドライトを落としてトラックの脇に停まったのは、対策課の保冷バンだった。
「夜分遅くに恐れ入ります、真壁さん。まだ火は残っていますでしょうか」
運転席から降りてきた葛城が、銀色のジュラルミン製保冷ケースを抱えて歩み寄ってくる。その半歩後ろには、糊の効いた白衣の上に防寒コートを羽織った、見慣れない眼鏡の男が続いていた。
「葛城さん、お疲れ様です。寸胴は落としたところですが、鉄板ならすぐ温まりますよ。そちらは?」
「広域鮮度流通機構で統括検査官をしている、久世誠司だ。夜明け前の休息中に申し訳ない」
久世と名乗った男は、手元のデジタル温度ロガーの表示を一瞥してから、生真面目な角度で頭を下げた。
葛城が調理台の端に保冷ケースを置き、ロックを外す。冷気と共に現れたのは、厚手の無酸素フィルムで部位ごとに個別真空包装された魔獣肉のパックだった。
俺は説明を聞くより先に、ケースの中身を覗き込んだ。
大きい方の袋には、分厚い背ロースと付随する背脂が一塊で封じられている。袋の隅に赤いドリップは溜まっておらず、肉の色も澄んだ深紅だ。討伐直後の血抜きと予冷は、かなり腕のいい現場が手順通りに仕上げている。
だが、俺の目を引いたのはその表面だった。真皮の上に、透き通った蜂蜜を塗り固めたような薄い琥珀色の結晶膜が張り付いている。
「……近郊迷宮の個体ですか。血抜きも予冷も文句なしの仕事ですが、真皮の上のこの琥珀色は初めて見ますね」
俺が呟くと、眼鏡の奥で久世の眉がわずかに動いた。
「袋の上から一目見て、一次処理の精度まで読むか。……葛城主任から聞いていた通りの目だな」
「ええ。処置が終わって安定したはずの近郊迷宮の定着層でしてね」
葛城が言葉を引き継ぐ。
「ここ数日、この膜を持った妙な個体が上がるようになったのです。現場では『還流猪』と呼んでいます」
「同一ロットの代表検体による事前培養検査はすでに適合しており、ここまでの連続保冷も途切れていない」
久世が手袋をはめた指で、ケースの中の二つのパックを示した。
「衛生面では問題ない検体だ。だが、この本ロースの表面にある結晶膜が、我々の標準トリミングラインを止めてしまっている」
俺は大きい方の三千三百グラムの本ロースの袋には手を触れず、隣に添えられた三百グラムほどの小さな別包みに目を留めた。
「こっちの小袋には、膜が被っていませんね。内側の背脂ですか」
「ああ。真皮から離れた内側の端脂だ。本ロースに手をつける前に、まず同じ個体の脂に火を入れて、異臭や渋みが出ないか確かめてもらいたい。真壁さんの所で試してもらうために、その端脂だけ別包みで持ってきた」
「なるほど。素性を確かめるなら、まず焼いて食ってみるのが一番早い」
俺は頷き、棚の上で白い布に包んで眠らせている先代の十年物包丁ではなく、まな板脇に置いた現役の二番手――使い慣れた骨スキを手に取った。
試験用背脂の小袋を開ける。
現れた脂は、ほんのりと淡い琥珀色を帯びていた。鼻を近づけても獣臭さはない。指の腹で軽く押すと、通常の豚脂よりずっと柔らかく、体温だけでじわりと湿るほど融点が低い。
「融点が低いな。強い火でいきなり煽ったら、旨味が出る前に油になって逃げるぞ、これ」
骨スキの刃先を寝かせ、塊の半分強を薄く均等に削ぎ出す。包丁の腹に吸い付くようなきめ細かさだ。残りの塊はすぐに清潔な保存袋へ収め、保管用の控えとして久世の手元へ返した。
「残りは機構の控えに返しておきます。味を見るなら、これだけ炙れば十分ですから」
久世は小さく頷き、控えの袋を保冷ケースへ戻した。
俺は鉄板の端に火を入れ、ごく弱火で温める。
薄く切った背脂を乗せた瞬間、パチ、と軽やかな音が弾けた。立ち昇ったのは、炒ったナッツと焦がしバターを合わせたような、香ばしく甘い匂いだった。
「……っ、いい匂い」
隣で見ていた凛の鼻先がひくつき、半歩だけ鉄板へ寄ってくる。
脂の底からじわじわと透明感が広がり、縁が黄金色に縮れたところで岩塩をほんの一つまみ振った。中心までしっかり熱を通してから、白い小皿に取る。
「熱いうちにどうぞ」
四人で一切れずつ、竹串で口へ運んだ。
サクッとした薄い焦げ目の奥から、澄んだ脂の甘みが舌の上へ広がる。岩塩がその輪郭をくっきりと引き立て、飲み込んだあとも重たい油っ気が残らず、軽い香りだけが鼻へ抜けていった。
「……甘い。巧、いつもの豚の脂より、ずっと軽い。……これ、汁にしたら絶対おいしい」
「ああ。臭みもえぐみもまるでない。根菜の香りを邪魔せずに、コクだけ足せる脂だ」
「ええ、本当に……これほど澄んだ脂は初めていただきました。まずは味も一安心ですね」
葛城が安堵の息を漏らす横で、久世は竹串を持ったまま笑わず、小皿に残った透明な脂の雫を見つめていた。
俺は骨スキを布巾で拭きながら、久世の横顔を見た。
「……久世さん。その顔は、手放しで安心してる顔じゃありませんね」
久世は小皿からゆっくりと視線を上げ、保冷ケースの中に残された大きい方の真空パック――未開封の背ロース三千三百グラムの包みを見下ろした。
「加熱しても雑味が一切出ない。これほど純度の高い脂なら、どこの厨房でも欲しがるはずだ。……だからこそ、頭が痛い」
久世の声は低く、生真面目な重みを帯びていた。
「端脂がどれほど旨くとも、主部位であるこの本ロースが扱えなければ流通には乗せられない。真壁さん、その表面の結晶膜はな……袋を開けて空気に触れた瞬間から、きっちり三十分で石のように硬化し、下の脂をすべて渋みに変えてしまうんだ」
「三十分で、石に?」
「ああ。我々の標準ラインでは、すでに何本もの本ロースが使い物にならなくなっている」
時計の針は午前三時四十分を指していた。
俺は保冷ケースの中で鈍く光る琥珀の膜を見つめ、ひと眠りした今日の午後二時、機構の検査室でその失敗した現物を見せてもらう約束を交わした。




