第28話 前夜の短縮営業と湯気だけの深夜定点カメラ
宵の八時から防波堤のプレハブ控室で体を休め、日付が変わった午前二時に表へ出ると、冷たい潮風の中で本店の鉄板と二号車のコンロに火を入れた。
店頭には、普段の深夜零時開店をずらして一時間だけの臨時営業にする貼り紙を前日のうちに出してある。湯気が立ち昇り始めた窓口の向こうに、見慣れた作業着の影が集まってきた。
「……いらっしゃい。悪いな、今夜は三時十五分までの二十五食だけなんだ」
午前二時十五分、本店の暖簾を掲げると、時間を合わせて集まってくれていた夜勤明けの常連たちが笑顔でカウンターを埋めた。今夜はカメラを切っている。
俺は鳴海工房が綺麗に一次処理を済ませて納品してくれた通常規格の豚ロース三千七百五十グラムを取り出し、筋引で二十五食分に切り分けて、鉄板で次々と生姜焼きに焼き上げていった。下処理の手間がない分、一時間でも余裕をもって二十五皿を出し切れる。
その間、すぐ横に停めた二号車では、リンが増設保冷庫から昨夜四度以下で保管しておいた九千五百ミリリットルの背ガラ白湯寸胴と下茹で済みのつくね百五十個(五十食分)を取り出し、二口コンロで時間をかけてじっくりと先行再加熱を進めていた。本店の営業が終わる頃にはどちらも中心まで十分に熱が通り、温度記録シートへ今朝の再加熱温度を記入してから、火を止めて二重蓋の保温容器へきっちりと収める。
「いいってことよ、大将! 貼り紙は見たぜ、このあと湾岸の夜市で二号車のテストがあるんだろ?」
「リンちゃん、向こうの荷揚げの連中は口も気も荒いからな、熱いの一発かましてやんな!」
「……うん。行ってくる」
常連たちが綺麗に平らげた空の丼を下げ、手を振って見送ると、俺たちは三時十五分きっかりに本店の火を落として暖簾を仕舞った。
俺とリンは二号車に乗り込み、まだ暗い海沿いの道路を走って、午前三時三十分ちょうどに湾岸夜市の特設合同区画へと滑り込んだ。
区画の入り口では、すでに自分の屋台に火を入れて待っていた透が、白い息を吐きながら手を振った。
「おう、待ってたぜ二人とも! こっちの湯沸かしはもういつでもいけるぞ!」
俺たちは手早く二号車を透の屋台の隣へL字型に横付けし、間のスペースに作業台を渡した。
保温運搬してきた背ガラ白湯九千五百ミリリットルの寸胴を左コンロへ、先行再加熱済みのつくね百五十個(五十食分)を右コンロの湯煎鍋へと移し、増設保冷庫から黄金鶏油百ミリリットルと首皮チップ百二十グラムを取り出す。
左のコンロで白湯スープを保温維持の火にかけ、右のコンロでは提供前に熱々へくぐらせるための湯を沸かし、その脇で鶏油のポットを湯煎にかける。
周囲の屋台の店主たちが、「おい、あれが噂の『まかべ食堂』の二号車か」「透のやつ、本当にあの端材を物にしたのかよ」と遠巻きにこちらを窺っているのがわかった。
午前三時三十五分。片隅で機材を確認していたこはくが、小さく親指を立てた。
「……深夜定点枠、カメラONしました。マイクは鍋の周囲音だけです」
調理台の斜め上に据えられた小型カメラが捉えているのは、俺たちの顔ではない。
年季の入った寸胴の中で、乳白色の背ガラ白湯がフツフツと泡立ち、もう一つの鍋で扁平な軟骨つくねが踊る手元。そして、暗い埠頭の冷気の中へ真っ直ぐに立ち昇っていく、真っ白な湯気だけだ。
タイトルも『おっさんの解体キッチン・二号車深夜定点』とだけ打たれた無言の配信画面に、夜更かしや夜勤明けの視聴者たちが一人、また一人と集まり始めた。
『お、こんな時間に通知が来たと思ったら定点カメラだ』
『声なしか。鍋がコトコト言ってる音しかしないのに、なんでこんなにお腹が減るんだ……』
『スープ真っ白じゃん。生姜の匂いが画面から漂ってきそう』
『今ちょうど夜勤の休憩中。この湯気見てるだけで冷えた目が癒やされるわ』
いつものような派手な解体ショーではない。けれど、ゴォッというガス火の燃焼音と、白湯が揺れる静かな水音が、同じ深夜を生きる人たちの画面へじんわりと染み込んでいく。
午前三時四十分。設営と提供前の温度確認が完了したところで、俺は保温ポットから熱い番茶を三つの紙コップに注ぎ、リンと透に手渡した。
「ほら、始まる前に指先を温めておけ。埠頭の風は思った以上に体温を奪う」
「……ありがとう、巧」
「サンキュ、大将。……ふぅ、生き返るな」
三人で並んで番茶を啜る。
寸胴の白湯に透の焦がし醤油かえしを香り付けに少量落とすと、甘く香ばしい鶏と醤油の匂いが潮風に乗って埠頭側へと流れていった。
透が空の紙コップを握り潰し、ふっと真剣な目つきで埠頭の暗がりを見据えた。
「大将、リンさん。うちの夜市はな、三時四十五分に第一便の冷凍船の荷揚げが終わってから、作業を終えた班ごとに次々と波がやって来る。最初の一時間が一番きつい戦場だ。次の作業予定に遅れると思わせたら、連中は舌打ちして隣のカップ麺の自販機へ行っちまう」
「……大丈夫。下茹でも温めも済んでる。あとは、くぐらせて注ぐだけ」
リンが白いエプロンの紐をキュッと締め直し、白湯寸胴のレードルを握った。
俺は今日は包丁もレードルも持たない。二人の後ろに下がり、三百円の会計と空器の回収だけを受け持つ約束だ。
午前三時四十五分。
埠頭の向こうから、長靴がアスファルトを踏み鳴らす重たい足音と、男たちのざわめきが近づいてきた。
「――来るぞ! まずは最初の荷揚げ班の波だ!」
透が低く叫び、再加熱用の沸騰鍋の前で網杓子を強く握りしめた。




