第25話 二口コンロの壁と10キロの端材試験箱
賄い鶏油飯の香ばしい余韻が二号車の周りに残る、七日目の午後四時三十分。
仕込み区画の入り口に一台の公用車が止まり、広域鮮度流通機構の久世さんが、卸組合の担当者を伴って歩いてきた。後ろの台車には、赤い封印テープが貼られた大型の保冷ケースが積まれている。もちろん、この場もカメラは完全にOFFのままだ。
「真壁さん、天宮さん、そして伊吹くん。今夜の保管期限を前に、卸組合との最終協議の結果をお持ちしました」
久世さんはまず二号車の荷台へ歩み寄り、俺たちが今日据え付けたばかりの増設小型保冷庫の温度計と稼働ログを携帯端末でスキャンした。
庫内温度はきっちり四度以下を維持している。
「……よし、二号車の四度以下保冷設備の稼働を確認しました。これをもって、明日――八日目朝からの産業焼却処分への移行は、五日間正式に猶予されます」
「ほ、本当ですか、久世さん!」
透が弾かれたように一歩前へ出た。
久世さんは眼鏡の位置を指先で直し、台車の上の保冷ケースを軽く叩いた。
「ええ。ただし、いきなり本番の量を一発で回すわけにはいきません。卸組合との合意により、実地審査は二段階で行います。まず明後日――九日目の朝、この検証用端材ロット十キロを使って、夜明け前の荷揚げ作業員向けに『五十食』を無遅刻で出し切れるか見せていただきます。そこを通過できた場合のみ、十二日目の朝、本契約と同じ『二十キロ一括・百五十食規模』の最終本審査へ進みます」
「……明後日の朝までに、仕込みの形を作ればいいんだな」
透が目元の隈を拭ってケースに手をかけ、リンが先に二号車の増設保冷庫の扉を開けた。
俺はその場で卸値の三千円を支払って検証用端材ロット十キロを買い取り、透と一緒に保冷ケースを持ち上げて庫内の棚へと収めた。
「では早速、今のやり方でどのくらい時間がかかるか、残っていたサンプルの膝軟骨四百グラムで測ってみよう」
俺は二号車の保冷庫から、昨日買ったサンプルの最後の残りである膝軟骨四百グラムを取り出した。
「俺が特級包丁で全部切ってやっても、毎日の屋台営業には意味がない。実際に現場で手を動かすリンと透の二人が、この二号車の調理台に並んで捌いてみてくれ」
「……わかった。透さん、隣、入る」
「おう、望むところだ! 俺だって毎日捌いてんだ、手並みを見せてやるよ!」
リンと透の二人が、二号車の狭い車内調理台に肩を並べて立った。
俺がストップウォッチを押し、二人が同時に膝軟骨四百グラムへ包丁を入れる。
だが、開始から十秒も経たないうちに問題が起きた。
透がいつもの屋台の癖で、硬い二重腱を断ち切ろうと牛刀の肘を大きく横に張って押し切りをした瞬間、隣で丁寧に膜を剥いでいたリンの左肘とゴツンとぶつかったのだ。
「っと、わりい!」
「……ううん。でも、包丁の振り幅が広すぎる」
フードトラックの車内通路は、大人二人が並ぶと肩が触れ合うほど狭い。
しかも風切り迷宮鶏の膝軟骨は、関節のくぼみに太い二重腱が入り組んでいるため、上から力任せに押し切りしようとすると刃先がツルリと滑る。透は手首に力を込めて何度も刃を往復させ、リンも俺から教わった丁寧な解体手順の通りに腱膜を一つずつ綺麗に剥がそうとして、細かく包丁を動かし続けていた。
結局、二人がかりで膝軟骨四百グラムから硬い腱五十グラム分を取り除き、可食部三百五十グラムを切り出すまでに、六分近い時間がかかってしまった。
「……四百グラムで六分。一キロあたり十五分ですね」
時計を見ていた久世さんが、厳しい表情で計算を口にした。
「このペースでは、明後日の十キロロットの下処理だけで二時間半、本契約の二十キロなら五時間近くかかってしまいます。しかもこれだけ手首に負荷がかかっていては、毎日続けることは不可能です」
「くそっ……! やっぱりあの二重腱が邪魔しやがる……!」
透が自分の右手首を押さえて悔しそうに歯噛みする。
俺は切り出された軟骨のバットを受け取り、外された硬い腱は廃棄用の袋へまとめて落とした。昨日仕入れたサンプル端材は、これで最後だ。
二号車のコンロでフライパンを熱し、先ほど引いた黄金鶏油を二十ミリリットルほど垂らす。油が鳴ったところへ軟骨を入れて強火でザッと炒め、粗塩と黒胡椒だけを振って皿に盛った。
「まずは食ってみろ。二人が苦労して腱を外した軟骨だ」
俺とリン、透、久世さんの四人で、熱々の『軟骨の鶏油塩焼き』を摘まんだ。
コリッ、ポリポリッ。
黄金鶏油をまとった膝軟骨は、噛み締めるたびに軽快な音を立てて砕け、軟骨周りのゼラチン質から濃厚な旨味がジュワッと溢れ出した。ただ、急いで切った一部の軟骨にはまだわずかに二重腱の根元が残っており、そこだけ奥歯を押し返すような硬さがあった。
「……旨い。軟骨自体の味は、すごくいい」と、リンが悔しそうに呟いた。「……でも、私の切り方だと丁寧すぎて遅いし、透さんの切り方だと腱が残る」
「ああ。今のままじゃ、狭い二号車の二口コンロとワンコイン原価の制約の中で、硬い腱付き端材を高速処理することはできない」
俺は二号車の調理台に置かれたまな板の端へ歩み寄り、食品用の白いチョークを取り出して、まな板の手前と奥に三つの短い印を引いた。
「いいか、二人とも。俺が普段やってる百点満点の精密解体は、ここでは使わない」
透とリンが同時に顔を上げ、俺の手元の白い印を見つめた。
「屋台の煮込みや鉄板焼きに必要なのは、見た目の美しさじゃなくて『歩留まり八割五分』と『今の四倍以上の速度』だ。……明日の昼までに、従来の手数を三つ削り落として、リンと透が肘をぶつけずに一キロ三分半で抜けられる『屋台用の刃筋』をここに作る。明日の十三時にまたここへ集まってくれ」
俺の言葉に、透はゴクリと唾を飲み込み、「……ああ、絶対に来てやるよ!」と力強く頷いた。
その夜、本店には鳴海工房へ有償で頼んでいた一次処理済みの通常豚六キロが時間通りに届いた。筋切りとスライスの手間が浮いたおかげで四十食の営業を余裕をもって回し切り、俺とリンは閉店後、翌昼前までしっかりと体を休めた。




