第23話 防波堤の深夜営業と鳴海工房への外注決断
湾岸夜市から防波堤へ戻ったのは、六日目の午後十一時前だった。
潮風が吹く定位置に本店と二号車を並べて止め、俺とリンは深夜零時の開店に向けた仕込みを始めた。
俺は本店の氷温庫から、昨夜繰り越した還流猪の特級本ロースを取り出し、今夜用に仕入れた通常規格の豚ロースとまな板の上に並べた。合わせて六キロ、今夜の厚切り生姜焼き定食四十食分だ。
隣の二号車では、リンが昼の試食後に残っていた豚背脂出汁のポットを傾け、鍋底に一杯分だけ残して深夜の生姜粥十四食分の仕込みを進めている。
「……巧。透さんの屋台、あのままじゃ明後日の朝には端材が焼却されちゃう」
生姜をすりおろす手を止めず、リンが静かに言った。
「私の二号車で、あの二十キロを引き受けたい。……でも、今のままじゃ保冷庫が足りないよね」
「ああ。備え付けの庫内は普段の粥の出汁で手一杯だ。毎朝二十キロの未分別端材と仕込み鍋を四度以下で回すなら、車載用の小型保冷庫を一台増設するしかない」
俺は二番手の筋引で通常豚の筋を引き、定寸に切り分けながら隣の窓口へ目をやった。
「箱は手配すりゃ済むがな。俺が毎朝二十キロの鶏まで抱えたら、本店の四十食を待たせるか、俺たちが休む時間を削ることになるぞ」
「……二号車は、私の持ち場だから。毎日の朝は、透さんと二人で回せる形にしたい」
おろし金を置いたリンが、二号車の狭い通路からまっすぐに俺を見た。
「でも、今の切り方じゃ透さんの手首が保たない。……狭い車内で二人が捌ける省略手順だけ、最初に作ってほしい」
「なら、俺が手を出すのはそこだけだ。保冷庫の増設と手順の設計、あとはテスト日と週二日の同行で手を引く。毎日の朝は二人に任せるぞ」
リンの頷きを見届けたところで、時計の針が深夜零時を指した。
俺は本店の暖簾を出し、鉄板と寸胴の手元だけを映す通常配信カメラをONにした。湾岸夜市で見た屋台の事情やこれからの段取りは、もちろん配信では一切口にしない。
「よし、開店だ。今夜は特級猪ロースと通常豚ロースの生姜焼き定食四十食、二号車は生姜粥十四食だぞ」
列の先頭で番号札を配り終えた大陸序列一位の常連・ガルシアが、丸太のような腕を振って一番乗りの席に腰を下ろした。
「大将、リンさん、こんばんは! 今夜も鉄板の音が威勢いいですね。まずは生姜焼き定食を大盛りでお願いします!」
「おう、ガルシア。札配りありがとな、すぐ焼くぞ」
ジュウウッ、と鉄板の上で厚切りのロース肉が跳ね、焦がし醤油と生姜の香りが防波堤に広がる。配信画面の向こうにも『今夜も飯テロが始まった!』『いい焼き色だなあ』『二号車の生姜粥も湯気がたまらん』と穏やかなコメントが流れていく。
一皿目を綺麗に平らげたガルシアの「ハイ! ワタシ、常連。……オカワリ、アリマスカ!」といういつもの掛け声に、俺は湯気の立つ白飯の大盛りで応じた。
零時四十五分には二号車の生姜粥十四食を売り切ったリンが本店へ合流し、七日目の午前二時ちょうど、用意した四十食分をすべて出し切って完売の木札を掲げた。
配信カメラと録画の電源を完全に切り、常連客たちを見送って片付けを始めた午前二時過ぎのことだ。
防波堤の灯りの下へ、一台の保冷バンが滑り込んできた。降りてきたのは、白い作業着の上にジャケットを羽織った鳴海解体工房の親方――鳴海蓮司だった。
「夜分に失礼します、真壁さん、天宮さん。お預かりしていた予備包丁のメンテナンスが完了しましたので、お届けに上がりました」
「おう、鳴海か。わざわざ助かる。ちょうど頼みたい仕事があったところだ、冷えるからまずはそこで一杯飲んでいけ」
俺は布に包まれた予備包丁を受け取って棚に収め、鳴海を二号車の前の丸椅子に座らせた。
保冷庫から取り出したのは、昼間市場で買ったサンプル端材のうち、小骨のついた背ガラ五百グラムだ。
背ガラを中華包丁の峰で軽く叩き割り、七百ミリリットルの水と共に強火で一気に炊き出して三百ミリリットルの濃い白湯を引く。そこへ、二号車の氷温庫のポットに最後の一杯分――三百ミリリットルだけ残っていた還流猪の豚背脂出汁を合わせた。
本店の特級ロースに続き、二号車の豚背脂出汁もこれで綺麗に使い切ったことになる。
俺は出来上がった六百ミリリットルの『黄金鶏豚ブレンドスープ』を三つの椀に注ぎ分け、リンと鳴海に手渡した。
「……いただきます」
両手で椀を受け取った鳴海が、立ち昇る湯気をひと口啜り、夜道の運転で強張っていた肩をふっと緩めた。
「……これは驚きましたね。鶏の背ガラ特有のキレのある旨味に、豚背脂出汁のまろやかな厚みが重なって、実に奥行きのある白湯になっています」
「……うん。背ガラだけでも、これだけ強い味が出る。朝の鍋のベースにしても絶対に負けない」
リンは椀の底まで静かに飲み干し、空になった寸胴の置き場を見つめて言った。
俺も自分の椀を空にしてから、鳴海へ向き直った。
「鳴海。今の背ガラは、湾岸夜市の屋台と二号車で活かす『風切り迷宮鶏』の端材ロットだ。昼間にそいつの手順を組む間、本店で毎日使う通常規格豚ロース六キロの一次処理――筋切りと定寸スライスを、一日三千円で有償外注したい」
鳴海は空の椀をカウンターへ丁寧に置き、本店のまな板へ一度目を向けてから背筋を伸ばした。
「開店前に真壁さんが引いておられた分ですね。承知いたしました、うちの若手三人に責任を持って回させます。ご指定の厚みで揃え、毎晩の仕込み前に必ず納品いたします。……ただ」
そこで鳴海は、ふと自分の右手首に指を添えるような仕草を見せ、少しだけ声を落とした。
「通常規格の豚なら全く問題ないのですが……最近、うちの工房に回ってくる別区画の硬質な還流個体で、二重になった腱を切る際に若手の手首に少し負担がかかっていましてね。まだ誰かが怪我をしたわけではありませんが、少し気になっているところです」
「二重腱で若手の手首にか……。わかった、二号車の目処がついたら、そっちの工房の刃筋も必ず見に行く」
鳴海を見送った後、俺は早朝対応の厨房機器業者へ連絡を入れ、二号車用の増設小型保冷庫――四度以下設定、設備費一万八千円――を、俺たちが目を覚ます今日の昼前に搬入してもらうよう手配した。
氷温庫に残るサンプル端材は、首皮六百グラムと膝軟骨四百グラムの計一キロ。
午前三時三十分、俺たちは厨房の火を落とし、午前十一時までしっかり体を休めるべくトラックの灯りを消した。




