第22話 湾岸夜市の煙とワンコイン屋台の意地
一旦防波堤へ戻って本店の仕込み準備と休憩を済ませた俺たちは、六日目の午後七時、夕闇が降りた湾岸夜市へと足を踏み入れた。
潮風に混じって、焦げた醤油とニンニクの匂いが漂ってくる。港湾の倉庫街に面した夜市の一角には、これから夜勤に入る荷揚げ作業員やトラック運転手たちが腹を満たすための屋台がいくつも並んでいた。
もちろん、一般の客や屋台のプライバシーに配慮して、こはくは撮影機材を一切出さず、カメラは完全に切ってある。
その屋台街の一番外れに、ひときわ激しい白煙を上げている小さな単独屋台があった。
染め抜かれた『伊吹屋台』の暖簾の下で、タオルを頭に巻いた二十代前半の青年――伊吹透が、一口の大型鉄板の前で汗だくになりながらヘラを振るっている。
品書きの木札には『迷宮鶏ホルモン鉄板焼き 一皿三百円』と大きく書かれていた。
「おう透、今日もホルモン焼き一皿くれ! あと五分で倉庫に入らなきゃならねえんだ!」
「あいよっ、すぐ出す! 熱いうちに食ってきな!」
透は強火で熱した鉄板に下処理済みの鶏端材を放り込み、自家製の甘辛醤油ダレをジュワッと回しかけて、わずか一分足らずで紙皿に盛り付けた。作業員たちは三百円を置いてそれを受け取り、立ち食いで掻き込んでは現場へと走っていく。
「……すごい手際ですね」と、列の後ろに並んだこはくが小声で呟いた。「一口コンロの鉄板だけで、あの回転速度を出してますよ」
「ああ。火入れの思い切りもいいし、タレの焦がし方で端材のクセを消すのも手慣れたもんだ」
俺は頷きながら、屋台の奥――透の足元に置かれた小型のクーラーボックスと、その横の青いポリバケツに目を留めた。
ポリバケツの中には、包丁で削ぎ落とされたものの、分厚い黄色い脂がついたままの首皮や、軟骨ごと大きく切り捨てられた関節の塊が、山のように溜まっている。
やがて俺たちの番が回ってきた。
俺とリン、こはくの三人は、カウンターの端に百円硬貨を三枚ずつ――三人分で計九百円をチャリンと置いた。
「ホルモン焼きを三皿くれ」
「あいよ、三皿……って」
ヘラを握ったまま顔を上げた透が、俺の顔と、隣に立つリンの白に近い銀髪を見て、わずかに目を見開いた。
配信やニュースで俺たちの顔を知っているのだろう。一瞬だけ警戒するように眉をひそめたが、すぐに屋台料理人の顔に戻り、鉄板へ砂肝と軟骨、首皮を叩きつけた。
カン、カン、と小気味よくヘラが鳴り、香ばしい煙が立ち昇る。
差し出された三つの紙皿を受け取り、俺たちは屋台の脇で竹串を使って熱々のホルモン焼きを口へ運んだ。
最初は、焦げた甘辛醤油ダレとニンニクのパンチがガツンと舌を打つ。強火で一気に煽られた砂肝はプリッとしていて、夜勤前の労働者が飯や酒を欲しくなる味だ。
だが、二口、三口と噛み進めるうちに、奥歯にゴリッとした異物感が残った。
中心までしっかり火は通っているのだが、膝軟骨の周りに残った二重腱が、強火の鉄板焼きでは逆に強く収縮して石のように硬くなっているのだ。さらに分厚い首皮も、表面が焦げるほど焼かれているのに、内側の厚いコラーゲン膜が噛み切れないゴム状の塊として残っていた。
それでも俺たちは無言で最後の一切れまで綺麗に食べ切り、空になった紙皿を重ねて屋台のカウンターへ返した。
俺が自分の名前を出して講釈を垂れる前に、一歩前へ出たのはリンだった。
リンは同じ移動販売の厨房に立つ料理人の目で、透の右手首に貼られた湿布と、鉄板の隅の焦げ付きをまっすぐに見つめた。
「……ごちそうさま。火入れは速いし、タレもすごく旨い」
リンの静かな声に、透がピクリと肩を揺らした。
リンは一拍の間を置いて、はっきりと言葉を継いだ。
「……でも、首皮の厚みと、軟骨の腱が邪魔をしてる。下処理で手首が疲れて、包丁が滑ってる」
「……っ!」
図星を突かれた透の顔が、悔しさで一気に紅潮した。
透は濡れ布巾で鉄板を荒々しく拭きながら、リンを睨み返した。
「……テレビや配信で有名な『まかべ食堂』の看板娘に、俺の屋台の何がわかるってんだよ。俺だってな、首皮から鶏油を引く方法くらい知ってるし、時間をかけりゃ腱だって綺麗に外せるさ! だがな、ここはワンコインで秒単位の客を捌く湾岸の屋台なんだよ!」
透は足元の小さな保冷箱と一口コンロを叩いた。
「営業用の一口鉄板しかねえ場所で、弱火でじっくり鶏油を引く時間なんて取れねえ! かといって昼間のうちに二十キロもの端材を一人で捌こうとしたら、あの石みてえな二重腱で手首がいかれちまうんだよ! 設備も人員も揃った有名店のお遊びと一緒にすんじゃねえ!」
それは、亡き親方から継いだ単独屋台で、毎日泥にまみれて労働者の胃袋を支えてきた料理人の、偽らざる悲鳴であり意地だった。
俺が口を開こうとした、ちょうどその時だ。
夜市の第一陣の客足が引いた午後八時過ぎ、屋台の裏手からバインダーを抱えた市場の卸組合の担当者が歩いてきた。
「伊吹くん、ちょっといいかね。例の風切り迷宮鶏のC級端材の件なんだが」
「……組合長。待ってください、まだ下処理のやり方を工夫してるところで……」
「いや、うちの組合も君の屋台を応援したいのは山々なんだ。だがね、あの未分別端材は一日二十キロまとめて出る。君の屋台用に二キロ、三キロだけ小分けにする人件費は出せないし、四度以下の低温荷捌き場に専用コンテナを置いておく保冷コストも、もう限界なんだよ」
担当者は申し訳なさそうに、しかし動かせない数字の現実を告げた。
「専用保冷コンテナの保管期限は、明日の夜までだ。明日中に『四度以下の保冷設備』と『毎朝二十キロ一括引き取り・百五十食規模の消化体制』が組めないなら、明後日の朝からは規約通り、全量を産業焼却処分に切り替える。……悪く思わないでくれ」
担当者が立ち去った後、屋台の裏には重い沈黙が落ちた。
透は言い返す言葉も出せず、自分の小さなクーラーボックスと、刃こぼれしかけた牛刀、そしてポリバケツに溜まった首皮の山を見つめて、血が滲むほど強く唇を噛みしめていた。




