ep86 過去から現在へ
昴が駿河家に来てから1ヶ月が経過していた。今日もいつものようにロビーで大地に勉強を教えていると、玄関へと続く扉が勢いよく開いた。
「和泉!!」
そこから入って来たのは唯華だった。少し苛立った状態で和泉の名前を叫んでいる。その手には紙束がグシャリと強い力で握られていて、その様子からも怒りの強さが伝わって来た。昴は不思議そうにそちらを見るが、大地はいつもの事のように気にせずに問題集の続きを記入していた。
「うるさいなぁ、朝からなんだ唯華。今日は休業日だから朝から酒呑んでいい気分なのに」
2階の部屋の踊り場から酒瓶片手に和泉が出てくる。
「ふざけんな、また人にツケやがって! これ以上借金増やすなって言ってるだろ!」
「仕方ない、文句なら美月に言え。私の稼ぎが1円も私の手元に入らないんだなら、仕方ない」
「その理論が通用しない事をいい加減、自覚しろ!」
2階に向かって唯華が吠える。しかし気にした様子もなく和泉がのらりくらりと話を変えようとする。昴は初めて見て驚いていると後ろから理人に声をかけられる。
「またやってるなー。昴さん、気にしなくていいからね、定期的に起こってる、いわばお約束みたいなものだから」
振り返るとニコニコと笑っている理人。これをいつもの事と片付けてもいいのだろうかと思う。
「昴さんもそのうち慣れるよー」
この屋敷ではそんな問題らしい。その間に、唯華は2階に上がり和泉を詰めている様子がロビーからも見えたが、内容は聞こえない。気にしたら負けかもしれないと昴は思い、大地に視線を向ける。
ちょうど問題で躓いていた為、声をかけて解き方を教える。大地に勉強を教える事で昴はさっきまでの騒動を忘れかけていた。
「随分馴染んだみたいだね」
不意に声が聞こえて驚いて振り向くと、そこには先程までの怒りは消えた唯華がいた。来た時に握りしめていた紙束も持っていない。値踏みする様な目で昴を見ている。
昴は少し考えてから口を開いた。
「……おかげさまで」
認めたくはないが、ここでの生活が充実しているのは唯華のおかげだ。拒否権を与えず、この優しい鳥籠に閉じ込められた。その事実は変わらない。しかし刑務所を出てから出会った中原やこの家の住人達のお陰で昴が少し柔軟な考えを持てる様になっていた。全てを悪と決めつけるのではなく、見えない側面があるのかもしれない。そう思うきっかけをくれたのが唯華だと言うのも事実なのだ。
しかし、昴の返答が予想外だったのか唯華は目を丸くして驚く。その姿が年相応で昴は思わず笑ってしまった。
「何?」
すぐに不機嫌な顔に戻り昴を睨む。子供らしい姿からすぐに一変し、唯華は一筋縄ではいかない人だと昴はすぐに思い直した。しかし、借金で怒り狂い、予想外の返答で驚くそんな一面を見て、唯華は苦手だがそれでも人間らしい面もある事を知れて少し安心する。
初めて会った時は言葉が通じないと思ったが、ここの温かい住人達が信頼している。それは昴に見せない側面があるだけだと今ならわかる。
「なんでもないです」
「こら、ゆい。あんまり昴さんを困らせないの」
「理人、これのどこが困らせてるって言うんだ?」
「もー、心にもないこと言っちゃって」
理人が唯華を揶揄う様に言う。その光景も意外に思えた。そして唯華もそれを受け入れている。確かにこの屋敷の住人達の絆が感じ取れた。
「はあー、もういいや。和泉に文句言えたし、もう行くよ」
「せっかく来たんだから、皆んなに挨拶しないの?」
「忙しいんだ、こっちも」
唯華はそういうと、来た時とは逆で静かに玄関へと続く扉を開けて出ていった。
「ほんとに、ゆいはさー」
呆れた様に理人はその後ろ姿を見守っている。その瞳は妹を見守る兄のように優しかった。昴も唯華の消えた扉をもう一度見る。
真意は掴めないが、少し唯華の人間性に触れれた気がした。
「昴さん、ごめんね。気を悪くしないで。ゆいは少し猫っぽいところがあるから」
「……猫ですか?」
「そう、懐かない猫!」
理人は両腕を上に伸ばして伸びをし、笑いながら続ける。
「相手を懐に入れるまでは、警戒心が強いけど、一度懐に入れてしまえば甘えはしないけど心は許してる感じがほんとにそっくり」
楽しそうに笑いながらいう理人に一理あるなと昴は思った。そうではないとこんなに温かい、自分の心を癒してくれる人々が信頼するはずがないのだから。
♢♢♢♢
昴はゆっくりと瞳を開けた。長い夢を見ていた気がする。この屋敷に来てからいまだに昴は戸惑っている。しかし、ここでの生活を気に入っているのも事実だ。
そして、部屋の外が賑やかなことに気づいた。この賑やかさで目が覚めたのだろうと昴は考える。
軽く身だしなみを整えると部屋の外に出る。ちょうど隣の部屋の理人が扉を開けて外を伺っていた。
「理人君、おはようございます」
「あっ、昴さんおはよう。朝から蒼達賑やかだね」
1階のロビーで蒼が吠えているのが見えた。
「おはようございます。朝から元気ですね」
2階から声をかけると蒼は自分の右腕と帽子を触ってから顔を上げた。それを少し不思議に思った。しかし、すぐに蒼はいつもの笑顔で昴に手を振って来た。
「すーさん、おはよ!」
「おはようございます、蒼さん。早いですね」
「ショートスリーパーだからな!」
蒼につけられたあだ名にどこかくすぐったいものを感じながら、美月のご飯の声がけに、隣の理人と笑う。
「行こうか、昴さん」
「そうですね」
自分はいつかこの場を去るだろう。"サーカス"の膿出しが終わったら、自分は元の居場所に戻る。最初はその事を当たり前だと思っていた。しかし、今ではこの屋敷を去るのが惜しいと思っている自分がいる事にも昴は気づいていた。
ここに来た時とは違う理由で今もまだ昴は困惑しているのだ。ここに来なければ知ることのなかった気持ちを持て余している。
今日も最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
次回は、明日20時に更新予定です。
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