第8話:カリスマの条件
桜ちゃんと並んで、学校を出た。
五月の夕方の空気は、まだ少し温かかった。
西の方が、うっすらオレンジ色に染まり始めている。
下校する生徒たちの声が、遠くなっていく。
「ねえねえ、さっきの白石くんってさ」
歩き出してすぐ、桜ちゃんが言った。
来た。
「何の話してたの、本当に? 美術部の展示って、なんか具体的に聞かれた?」
横目でちらっと見た。
桜ちゃんは純粋に気になっているだけの顔だ。
悪意はない。
ただの好奇心だ。
だから余計に、心拍数が上がる。
「えっと……生徒会の仕事のことで、ちょっと相談に乗ってたんだよね」
言い訳が、さっきからアップグレードされた。
「生徒会の話」から「生徒会の仕事の相談」へ。
我ながら、じわじわと嘘が育っている。
「へえ〜! なんか意外。白石くんって話しかけにくそうじゃない?」
「そう……かな」
「どんな人だった?」
少しの間、考えた。
本当のことは言えない。
でも、全部嘘にするのも、なんか違う気がした。
「すごく……頼りになる感じ、かな」
口から出てきた言葉を、自分でも少し意外に思った。
でも、間違いではなかった。
少なくとも、ゴキブリと蛾とクマバチ以外は。
「やっぱりそうだよね〜! ちゃんと話してみたいな」
桜ちゃんが嬉しそうに言った。
私は愛想笑いで返した。
……頼りになる、か。
言葉が、頭の中に残った。
桜ちゃんがまた何か話しかけてくる。
うん、うん、と相槌を打ちながら、半分くらいしか頭に入らなかった。
***
桜ちゃんと別れて、一人になった。
駅のホームは、夕方の人でそれなりに賑わっていた。
でも、一人だと、妙に静かな気がした。
さっきまで桜ちゃんがしゃべっていた分の空白が、急に広くなったみたいな感じ。
さっき自分が言った言葉を、もう一度頭の中で転がした。
頼りになる感じ。
嘘じゃない。
本当に、そう思っている。
芋虫の写真を前に、ベンチの端を握りしめながらも「見れた」と言った声。
クマバチに飛び上がった後、「野外はまだ早かったかもしれない」と静かに言った声。
蛾に固まりながらも、桜ちゃんが去った後に「……ありがとう」と言った、あの声。
全部、頼りになる、とはちょっと違う気もするけど。
でも、頼りになる、と言い切れる気もする。
……なんか、ややこしい。
ガタン、ゴトン。
電車が来た。
乗り込んで、端の席に座り、窓の外を見た。
夕暮れの街が、後ろに流れていく。
誰かの鞄が、棚の上で揺れている。
白石くんは今頃、まだ教室にいるんだろうか。
蛾は、もういなくなっただろうか。
……いなくなっていてほしい。
白石くんのために。
白石くんが怖い思いをしないように。
それだけだ。
断じて、それだけの理由だ。
……たぶん。
***
翌日の放課後。
美術部の活動を終えて、教室に向かった。
廊下を歩きながら、スマホを確認した。
────────────────
今日もいるよ。
────────────────
律儀に連絡をしてくれる。
相変わらず簡潔だ。
でも今日は、その簡潔さが少し、ほっとする感じがした。
教室の引き戸をすっと開けると、白石くんが自分の席に座っていた。
入ってすぐ、廊下側の壁をざっと確認した。
蛾の気配、なし。
胸の中で、小さくほっとした。
……白石くんのために、だ。念のため。
白石くんが顔を上げた。
目が合った瞬間、なんとなく口元が緩んだ。
白石くんの方も、少しだけ。
「今日、見る?」
短く聞いた。
参考書を閉じながら。
「うん」
私は前の席に椅子を引いて、くるりと向きを変えて座った。
スマホを取り出す。
カルト。
ダウンロード済み。
準備は整っている。
……でも、よく考えたら。
放課後の教室で、学校のスマホ禁止ルールを横目に、ホラー映画を見ようとしている。
これ、なんかちょっと、悪いことをしている気がする。
でも白石くんは涼しい顔で参考書を脇に置いている。
まあ、いいか。
二人でやっていることだし。
共犯、ということで。
問題は、イヤホンだった。
「イヤホン、どうする?」
「片耳ずつ、かな」
「どっちがいい?」
「……右」
右、か。
私のイヤホンを、白石くんの耳に。
それはそれで、なんか、ちょっと。
……というか、そもそも私のイヤホン、ちゃんと清潔だろうか。
いや、清潔だけど。
でも、なんか。
……待って。
私は立ち上がって、教室の入り口に向かった。
「……どこ行くの」
「ちょっと待って」
入り口横のアルコール消毒を手に取った。
ティッシュを一枚引いて、アルコールをしみ込ませる。
シューッ……キュッ、キュッ。
それで、イヤホンを丁寧に、念入りに、念入りに拭いた。
白石くんが黙ってこちらを見ていた。
「……何してるの」
「消毒」
「……なんで」
「なんとなく」
なんとなく、ではない。
でも「あなたに貸すのがちょっと恥ずかしくなったので」とは言えなかった。
白石くんがしばらく無言でいた。
それから、小さく、ふっと笑った。
さっきまで参考書を読んでいた時とは、少し違う顔だった。
「……ありがとう」
そう言って、イヤホンを受け取った。
私は左のイヤホンを耳にさした。
右のコードが、白石くんの方に伸びている。
……なんか、距離が近い。
イヤホンを分けるんだから当然そうなるんだけど。
当然なんだけど。
気にしないことにした。
断じて。
スマホを机の上に置いて、再生ボタンに指を乗せた。
教室が、静かだった。
放課後の、誰もいない教室。
窓の外で、遠くから部活の声が聞こえてくる。
それ以外は、しんとしている。
こういう静けさの中で、ホラー映画を見る。
……やっぱり、ちょっと悪いことをしている気がする。
でも、なんか、悪くない気分だ。
白石くんが、画面をじっと見ていた。
涼しい顔を保っているが、背筋が少しだけ、まっすぐすぎる気がした。
気のせいかもしれない。
「……本当に大丈夫?」
聞いてしまった。
白石くんが、一瞬だけ私を見た。
それから、前を向いて、
「大丈夫、です」
敬語になった。
……大丈夫じゃないやつの返事だ。
でも、笑ってはいけない。
笑ったら負けだ。
私も同じくらい怖いんだから。
たぶん。
「じゃあ、いくよ」
ポチッ。
再生ボタンを、押した。
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