第7話:秘密がバレそうになった日
数学の授業中だった。
先生が黒板に式を書きながら、教室を見回した。
「じゃあ、この問題、誰か解ける人」
シンと静まり返った。
黒板には、こう書かれていた。
x³ - 3x² - 4x + 12 を因数分解せよ。
……全然わからない。
三乗って時点で、もう私の脳みそは白旗を上げていた。
「白石、どうぞ」
先生が指名した。
白石くんが、特に表情を変えずに立ち上がった。
「はい。まず因数定理を使う方法ですが、f(x) = x³ - 3x² - 4x + 12 とおいて、f(2)を計算すると8 - 12 - 8 + 12で0になります。なので(x - 2)で割り切れることがわかります。組み立て除法でx² - x - 6を求めて、これをさらに因数分解すると(x - 2)(x - 3)(x + 2)です」
先生が頷いた。
「そう。正解。それが教科書の解法ね。他に何かある?」
「もう一つ、別の解き方もできます。x²(x - 3) - 4(x - 3)と変形すると、(x-3)でくくれて(x² - 4)(x - 3)になります。あとはx² - 4を因数分解して同じ答えになります」
教室が、少しざわついた。
先生が少しだけ目を丸くして、それから口元をほころばせた。
「……そうね。こっちの方がスマートかもしれない」
白石くんは静かに席に着いた。
涼しい顔のまま。
褒められたことを、どこ吹く風という感じで。
……なんなんだ、あの人。
そうじゃなくて、なんなんだ、じゃなくて。
私は教科書に視線を戻した。
黒板の式が、相変わらず全然わからなかった。
……スマートな解き方、という以前の問題だった。
***
昼休み。
お弁当を出して、仲の良い子と食べていると、隣のグループの声が聞こえてきた。
「白石くんって、本当に頭いいよね」
聞こえてきた。
よりによって。
「さっきの数学、二つも解き方出してたじゃん。あんなの思いつかないよ」
「わかる〜。しかも全然ドヤってないし」
「それがまたいいんだよね。なんか、完璧すぎて近づきがたいけど」
私は黙ってお弁当を食べた。
完璧。
そうだよね。
頭が良くて、運動もできて、さりげなく気が利いて。
しかも二つの解き方を出しても、涼しい顔のまま席に戻る。
でも私だけ知っている。
あの人は昨日、チャイルド・プレイのトラウマを小さな声で打ち明けた。
その時の声が、さっきの数学の授業の声と、同じ人のものとは思えない。
「近づきがたい」か。
まあ、そうだよね。
私だって最初はそう思っていた。
でも。
今の私にとっては、チャイルド・プレイの話をした時の白石くんの方が、なんとなくリアルな気がする。
……考えすぎだ。
お弁当を食べよう。
黙々と食べた。
鳥皮、うまぁー。
隣のグループは、まだ白石くんの話をしていた。
***
放課後。
美術部の活動を終えて、廊下を歩いていた。
今日の修業は、カルトのあらすじ確認と視聴だ。
昨日ダウンロードしてきた。
Wi-Fiで、ちゃんと。
データ使用量は怖いので。
教室の前まで来て、引き戸に手をかけようとした、その時。
廊下の向こうから、白石くんが歩いてくるのが見えた。
生徒会室の方からだろうか。
参考書を小脇に抱えて、涼しい顔で歩いている。
……タイミングが合ってしまった。
向こうもこちらに気づいて、足を止めた。
二人で、廊下の真ん中で向かい合う形になった。
「お疲れ様」
「お疲れ様」
よし、動揺せずに挨拶できた。
「ダウンロード、できた?」
白石くんが聞いた。
カルトのことだ。
「うん。ちゃんとWi-Fiでダウンロードしてきた」
「……ありがとう」
短く言って、白石くんが教室の引き戸を開けた。
さりげなく、私の方を先に通してくれた。
……なんか、律儀だな。
そういうところが、完璧なんだろうな。
教室に入って、前の席に椅子を引いて、くるりと向きを変えて座った。
二人でスマホを並べた。
私はスマホを取り出して、ダウンロードした映画のページを開いた。
「まず、あらすじから確認しようか」
「うん」
白石くんが、画面を覗き込むようにわずかに身を傾けた。
近い。
ホラーとは別のドキドキが――。
……気にしないことにした。
「えっと……前半は心霊ドキュメンタリー風のホラーで、霊能者たちが次々と謎の存在に倒されていくらしい」
読み上げながら、ちらっと白石くんを見た。
表情が、少しずつ曇っていた。
「……霊能者が、倒される」
「うん。でも後半からネオっていう最強の霊能者が登場して、展開が一変するって書いてある」
「……ネオ」
「なんか、少年漫画みたいだよね」
白石くんが、少しの間黙った。
「……霊能者」
さっきと同じ言葉だった。
霊能者の部分がよほど気になるらしい。
私はレビューの方にスクロールした。
「あ、レビューに『笑いながら見られる』って書いてある。あと『ネオ様がカッコいい』とも」
「……見せて」
白石くんが、画面をじっと見た。
しばらく黙って読んでいた。
「……モキュメンタリー、というジャンルなんだね」
静かに言った。
知識として整理しようとしている顔だ。
さっきまでの「霊能者」連呼が嘘のように、落ち着いた声だった。
……この人の切り替え、どうなってるんだろう。
「あ、あと続編がないのに続きを期待させる終わり方らしいよ」
「……それは」
白石くんが、少し眉を寄せた。
「気になるね」
「……気になる」
二人で同時に呟いて、顔を見合わせた。
白石くんが、珍しく少し目を丸くした。
私も、たぶん同じ顔をしていたと思う。
「よし、見てみよう」
そう言った、その時だった。
白石くんの視線が、ふっと私の後ろに向いた。
一瞬で、表情が変わった。
涼しい顔が、ではない。
ほんの少し、固まった。
……え、何。
振り返ろうとした私の肩を、白石くんの手が静止させた。
正確には、肩の近くの空気を押さえるような仕草だった。触れてはいなかった。
でも意味はわかった。
振り返るな、ということだ。
でも気になる。
私は息を殺した。
白石くんの視線の先を、横目で確認した。
黒板の横、窓の縁のあたり。
小さな蛾が一匹、ひらひらととまっていた。
……なるほど。
白石くんは、今にもぺしょぺしょになりそうな顔で静止していた。
いつか聞いた、『そこで止まれ。一歩でも動いたら容赦しない……』という声が脳内で聞こえた気がした。
あの時もこんな感じだったのだろうか。
その時だった。
「あ、いたいた! めい、部室に忘れ物——」
ビクッ!!
二人同時に、ビクッとした。
廊下の向こうから、明るい声が飛んできた。
美術部の同期――宮田桜ちゃんだった。
別クラスの、いつも廊下から顔を出して私を驚かせる、あの子だ。
やばい!
私は咄嗟に動いた。
白石くんと桜ちゃんの間に、体を割り込ませるように立った。
足が、勝手に動いていた。
頭より先に、体が動いた。
「ちょっと待って。今、生徒会の話聞いてたから」
自分でも驚くくらい、すらっと出てきた。
嘘だけど。
生徒会の話、してないけど。
でも、今は細かいことを気にしている場合ではない。
桜ちゃんが、白石くんに気づいた。
「え、白石くん? 珍しい。何の話してたの?」
にこにこしながら聞いてくる。
悪意はない。ただの好奇心だ。
それが、余計に心拍数を上げた。
白石くんが、動いた。
さっきまで蛾に固まっていた人と、同一人物とは思えない速さだった。
涼しい顔に、一瞬で戻っていた。
「美術部の展示について、少し聞いていたんだ」
さらりと言った。
嘘だった。
でも完璧な嘘だった。
「そうなんだ〜」
桜ちゃんが頷いた。納得している。
さすがだ、と思った。
私の嘘とは、完成度が違う。
白石くんが、私の方を一瞬だけ見た。
何も言わなかった。でも伝わった気がした。
あとは頼む、ということだと思う。
「ごめん、話したいこと話せたから、一緒に帰ろ」
私は桜ちゃんに向かって言った。
「え、いいの? やった」
桜ちゃんは嬉しそうに笑った。
白石くんに向かって、私は静かに「じゃあ」と言った。
それだけだった。
白石くんも「うん」といつも通りの涼しい顔で言った後、参考書をさっと取り出した。
……カルト、お預けになってしまった。
桜ちゃんと並んで廊下を歩いた。
五月の夕方の光が、廊下の床に細長く伸びていた。
桜ちゃんが何か話しかけてきた。
うん、うん、と相槌を打ちながら、半分くらいしか頭に入らなかった。
……まあ、しかたない。
今日はいろいろあったので。
二人でホラー映画、本当に大丈夫なんだろうか。
……まあ、なんとかなると思う。
たぶん。
(あれ? 白石くんを一人残してしまったけど、蛾は大丈夫だろうか)
最後までお読みいただきありがとうございます!
もし面白いと感じていただけましたら、【評価】や【ブックマーク】をお願いします。




