閑話1:キラキラの裏側
吉野さんが帰った。
教室が、静かになった。
夕方の光が、窓から斜めに差し込んでいた。
さっきまで二人だった空間が、急に広くなった気がした。
チョークの粉と、日光の残り香。
いつもと同じ匂いのはずなのに、少し違う気がした。
参考書を開こうとして、手が止まる。
……なぜだろう。
しばらく、机の上の参考書を見ていた。
でも、ページを開く気にならなかった。
こういうことは、あまりない。
カバンから日記を取り出す。
表紙のシールが、蛍光灯の光を反射している。
いつも通りの日記だ。
勉強の前に、今日のことを書いておこうと思う。
ペンを持つ。
でも、なぜかすぐには書けなかった。
今日のことを整理するために、少し前のページから読み返すことにしよう。
***
事の発端は、五月のはじめだった。
────────────────
5/12(火)晴れ
昨日の放課後。
教室で遭遇した、招かれざる客。
名前を呼ぶのも気が引けるので、ここでも「あいつ」と記しておく。
かなり大きかった。動きも素早かった。
いつものように残るつもりだったが、昨日は早々に撤退した。
翌朝、本日の早朝。
自分の席にはまだいる気がして、渡辺日向の席を借りることにした。
我ながら情けないが、仕方がない。
早朝に扉が開いた。
思わず身構えたが、入ってきたのは吉野さんだった。
宿題を忘れたらしく、ひどく慌てていた。
「おはよう」と声をかけたら、「おはよう、ございます」と返ってきた。
なぜか敬語だった。内心、少し笑ってしまったことを覚えている。
結局、田中先生に処理してもらった。
助かった。しかし同時に、吉野さんに全て見られていたことに気づいた。
聞けば、昨日の声も聞こえていたらしい。
怖い人だと思っていた、とも言っていた。
なるほど。今朝の敬語の理由も同時にわかった。
笑っていいよ、と言ったら、少しだけ笑ってくれた。
その笑い方を、うまく言葉にできない。
一緒に修行しよう、と言われた。
思わず笑顔が出た。そのことを、自分でも少し驚いている。
人には見せたくない、僕の一面なのに――。
────────────────
(吉野さんの笑い方は、小動物みたい――子猫に似ている気がする)
***
次のページは、放課後の教室での話を記していた。
────────────────
5/13(水)晴れ
放課後、吉野さんが来てくれた。
部活終わりに、前の席に椅子を引いて、くるりと向きを変えて座った。
自然な動作で。
静かな子だと思っていた。
でも、話してみたら、いい意味で印象が変わった。
苦手なものが全部かぶっていた。
虫、暗いところ、驚かされること。
三つとも、同じだった。
思い出せば、今でも思わず笑ってしまいそうになる。
こんなことがあるのか、と。
いつもなら早く来た理由や遅くまで残る理由を聞かれても、「まあ、ね」で済ませる。
今日もそうした。
答えた後、なぜか窓の外を見ていた。
なぜそうしたのか、うまく説明できない。
ここにも、それ以上は書けない。
吉野さんは、「二人でビビりながらやれば、なんとかなるかもしれない」と言っていた。
笑いながら、でも真剣な顔で。
その両方が同時にある顔を、僕はあまり知らない。
────────────────
***
次は、公園での修業の日だった。
────────────────
5/14(木)晴れ
放課後、吉野さんと公園で修業を行った。
虫の写真を見るという、前回決めた方針通りに。
モンシロチョウ、カブトムシ、アゲハチョウの幼虫。
段階的に見ていった。
正直、幼虫には少し手こずった。
しかし、見れた。これは収穫だと思う。
写真の後、実物も見てみようと提案した。
蟻は、許容範囲だった。小さいから。
問題は、その後だった。
クマバチが来た。
反射的に立ち上がって、後ずさった。
その拍子に、吉野さんが僕の腕をつかんだ。
クマバチは、僕たちに構わず花の蜜を吸い始めた。
眼中にないらしかった。
腕をつかまれたことに、吉野さんは気づいていなかった。
それはそれで、少し複雑だった。
気づいていてほしかったかどうかは、わからない。
ただ、心拍数が戻るまでに、少し時間がかかった。
クマバチのせいでは、おそらくない。
吉野さんは、やはり子猫に似ている。
油断すると頭を撫でたくなるので、注意が必要だ。
────────────────
(我ながら、几帳面に書きすぎだ。書かなくていいことまで……)
***
最後のページに、今日のことを書く。
────────────────
5/15(金)晴れ
放課後、吉野さんと教室で修業を行った。
今日は図鑑を使って、虫の絵を描いた。
図鑑は、吉野さんが昼休みに図書室から借りてきてくれたものだ。
高校の図書室に図鑑があるとは思わなかった。
吉野さんは、思いついたことを、すぐに実行できる人だと思う。
図鑑にまつわる小話も教えてもらった。
制作中に新種が発見されたらしい。
ガッケンホソカワゲラ、という名前がついている。
図鑑を作る過程で、誰も知らなかった虫が見つかった。
それは、確かにすごいことだと思う。
絵を描いていたら、集中するうちに怖くなくなってきた。
知ることで、恐怖は薄れるらしい。
吉野さんの言っていた通りだった。
トンボがこちらに向かってくる理由も教えてもらった。
扇風機のプロペラをメスと勘違いするらしい。
なるほど。あいつらなりの事情があったのか。
吉野さんが絵を描いている横顔を、少し見ていた。
真剣な顔だった。
修業中のビビりっぷりとは、まるで別人のようだ。
集中すると別の顔になる人だ、と思った。
どちらの顔も、同じ人のものだと思うと――
────────────────
(今日はここまでにしておこう)
続きを書こうとしたが、言葉が出てこなかった。
何を書けばいいのか、わからなかった。
……いや。
何を書きたいのかは、わかっている気がした。
だから、書けなかった。
パタン。
ページを閉じる。
表紙のシールが、また蛍光灯の光を反射した。
いつも通りの日記だ。
中身は、いつも通りではないかもしれない。
そこには、あまり深く考えないことにした。
参考書を開く。
文字を目で追う。
でも内容は、頭の中で霧散していく。
こういうことも、あまりない。
ふと、気づいた。
学校も、修業もなければ、明日は話す理由がない。
修業があってよかった、と思う。
変わりたいから、という理由ではなく。
そういう理由で、と日記に書こうとして、やめた。
書けなかった。
ガタン、ゴトン……。
窓の外は、もう暗い。
遠くで、電車の音がする。
「また来週」という言葉が、まだ少し残っていた。
月曜日まで、二日ある……。
最後までお読みいただきありがとうございます!
もし面白いと感じていただけましたら、【評価】や【ブックマーク】をお願いします。




