第5話:第二の修業
次の修業は、放課後の教室で行うことになった。
前回の反省を踏まえて、というやつだ。
クマバチは悪くない。おとなしい種類だと知っている。
でも、あの羽音はちょっと、まずかった。
部活を終えて、私は鞄を確認した。
スケッチブックが二冊。鉛筆が二本。
そして、昼休みに図書室から借りてきた図鑑が二冊。
学研の、写真がたっぷり載っているやつだ。
借りる時に少しぞわぞわしたのは、内緒にしておく。
教室の扉を開けると、白石くんはすでにいた。
いつも通り、自分の席に座って参考書を開いている。
「お待たせ」
「ううん」
ガタッ。
私は白石くんの前の席に椅子を引いて、くるりと向きを変えて座った。
机の上に、スケッチブックを二冊と図鑑を置いた。
「……わぁ、図鑑だ」
白石くんが、思わず、というように声を上げた。
いつもの涼しい声とは、ちょっと違う。
なんか、少しだけ、素の声だった。
「どうしたの、これ」
「図書室で借りてきた」
「……高校の図書室に、図鑑があるんだ」
「あったよ。意外と充実してた」
白石くんが、図鑑をじっと見た。
表紙には、ツヤツヤした甲虫の写真が載っている。
……よく見ようとした自分が、少し怖い。
「今日は、これを見ながら絵を描く修業をしようと思って」
私はスケッチブックを白石くんの前に置いた。
「絵を描く……」
「うん。じっくり観察することになるから、知ることに繋がると思って」
白石くんは、スケッチブックと図鑑を交互に見た。
それから、
「……やってみる」
と、短く言った。
図鑑を机の真ん中に置いた。
二人で覗き込む形になる。
五月の夕方の光が、教室に斜めに差し込んでいた。
チョークの粉と日光の残り香が混ざったような匂いの中に、二人だけがいた。
また、近い。
……修業に集中しよう。
「この図鑑、全部生きてる状態で撮った写真なんだって」
「生きてる状態……」
「うん。昔の図鑑はイラストだったり、標本の写真だったりしたんだけど。この学研の図鑑LIVEは違って——全部、本物の生きた昆虫を撮り下ろしてるらしくて」
「……リアルだね」
白石くんの声が、わずかに硬くなった。
リアルだね、じゃない。それが怖いんだよね、たぶん。
「しかもこの図鑑、作ってる途中に新種が見つかったんだって」
「新種?」
「うん。昆虫を採取して撮影してたら、今まで誰も知らなかった虫が出てきたらしくて。ガッケンホソカワゲラ、っていう名前がついてる」
「……ガッケン、ホソカワゲラ」
白石くんが、静かに繰り返した。
「そう。図鑑の名前から取ったんだって。なんかロマンあるよね」
「……図鑑を作ってたら新種が見つかった」
「うん」
白石くんは少しの間、表紙を見つめた。
それから、
「……すごいな」
と、静かに言った。
怖いとか、嫌だとか、そういう声じゃなかった。
純粋に、感心しているみたいな声だった。
なんか、少し意外だった。
でも、なんで意外なのかはうまく言葉にできなかった。
「じゃあ、描いてみようか」
私はスケッチブックを開いて、鉛筆を手に取った。
白石くんの分も、そっと渡す。
「……ありがとう」
白石くんが、鉛筆を受け取った。
スケッチブックを開いて、図鑑と交互に見ている。
「最初は、見るだけでいいから。描けそうだと思ったら描いてみて」
「うん」
私はページをめくった。
モンシロチョウのページ。
昨日の写真修業でも見た種類だ。
白石くんが、図鑑を覗き込んだ。
前回より、表情が穏やかだった気がした。
写真修業の成果が、少し出ているのかもしれない。
しばらく、二人で黙って図鑑を見た。
カリカリ。
教室に、鉛筆の走る音が始まった。
白石くんが、描き始めていた。
じっと、図鑑を見て。
じっと、スケッチブックを見て。
また、図鑑を見て。
その繰り返しの中で、白石くんの表情が少しずつ変わっていった。
引きつっていた口元が、ほぐれていく。
眉間の力が、抜けていく。
集中している、という顔になっていった。
「……集中すると、なんか怖くなくなる」
白石くんが、静かに呟いた。
手は止めないまま、ぽつりと。
それが狙いだよ、と私は心の中でガッツポーズした。
声に出したら、たぶん、なんか負けた気がするから。
白石くんが集中して描いている間、私はぱらぱらともう一冊の図鑑をめくった。
次の修業の下見、というやつだ。
……ちゃんと、修業の準備をしているんです。決して筆が乗らないわけじゃないです。
トンボのページで、手が止まった。
「ねぇ、白石くん」
「……うん」
「トンボって、扇風機とか室外機のプロペラをメスと勘違いして近づく性質があるんだって」
白石くんの鉛筆が、一瞬止まった。
「……え」
「こっちに向かってくるやつ、いるって前に話していたじゃない。あれ、勘違いしてるらしい」
白石くんが、図鑑をちらりと見た。
それから、少しの間、黙った。
「……つまり」
「うん」
「あいつらが向かってくるのは、メスを探してるから」
「そう、らしい」
また、少しの間、沈黙が流れた。
「……なんか、急に怖くなくなった」
白石くんが、静かにそう言った。
鉛筆を持つ手が、また動き始めた。
私は図鑑から目を上げて、白石くんの横顔を見た。
口の端が、かすかに上がっている。
笑っているのか、呆れているのか、よくわからなかった。
でも、悪くない顔だった。
疑うな。畏れるな。そして知れ。
やっぱり、この言葉は正しいと思った。
***
コトッ。
しばらくして、白石くんが鉛筆を置いた。
「……できた」
スケッチブックを、そっとこちらに向けた。
私は、絵を見た。
……これ、普通に上手くない?
モンシロチョウが、スケッチブックの上に描かれていた。
翅の形が正確で、複眼の位置もちゃんとしていて、触覚の角度まで図鑑通りだった。
というか、美術部員の私より上手いかもしれない。
なんで。
なんで虫の絵がこんなに上手いの。
「……う、上手いね」
正直に言ったら、白石くんが少し目を丸くした。
「そう?」
「うん。すごく」
白石くんは、自分のスケッチブックをもう一度見た。
それから、少しだけ、照れたように視線を逸らした。
「絵は、好きだから」
短く、そう言った。
いつもの涼しい声とも、修業中のぎこちない声とも違う。
どこか、素直な声だった。
完璧な仮面の隙間から、何かが覗いた気がした。
うまく名前はつけられないけれど、確かに見えた。
「白石くんって、なんなんだろう」
気づいたら、口から出ていた。
独り言のつもりだったのに、声に出てしまっていた。
白石くんが、こちらを向いた。
「……え?」
「あ、ごめん。独り言」
慌てて誤魔化したら、白石くんは「そっか」と短く返して、また自分のスケッチブックに視線を落とした。
頬が、少し熱い気がした。
……気のせいだと思う。たぶん。
***
修業が終わったのは、それからしばらく後のことだった。
二人でスケッチブックを閉じて、図鑑を脇に置いた。
白石くんが、椅子を引いて立ち上がった。
帰り支度をしながら、ふと気づいた。
白石くんがカバンを開けて、何かをしまっている。
ちらりと見えたのは、表紙に小さなシールがいくつも貼られた、手帳のような何かだった。
……かわいい。
そう思った瞬間、白石くんがカバンを閉じた。
詳しくは見えなかった。見えなかったけど、なんとなく、そういう気がした。
「じゃあ、また来週」
「うん。また来週」
白石くんは席を立たなかった。
参考書を開き直して、まだ残るつもりらしい。
私は扉を開けて、廊下に出た。
一歩歩いてから、なぜか足が止まった。
でも振り返らずに、そのまま歩き出した。
***
帰り道、私はずっと今日のことを考えていた。
図鑑を見て「すごいな」と言った白石くん。
集中するうちに表情がほぐれていった白石くん。
「絵は、好きだから」と、素直に言った白石くん。
全部、学校では絶対に見られない顔だった。
それを見ているのは、今のところ私だけだ。
……白石くんって、なんなんだろう。
この前も思ったことと同じだ、と気づいた。
でも、あの時とは何かが違う気がした。
何が違うのかは、うまく言葉にできなかった。
ただ、一つだけはっきりしていることがあった。
今日の帰り道は、なんか、足取りが少し軽い気がした。
……たぶん、ね。
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