第4話:第一の修業
その日の二時間目は、体力測定だった。
五月の校庭は、風が気持ちよかった。
青空の下、クラスの列が整列している。
五十メートル走の順番が来た。
白石くんが、スタートラインに立った。
パンッ!
号砲が鳴った。
迷いのない、綺麗なフォームだった。
腕の振り方も、足の運び方も、無駄がない。
ゴールした時、周りから自然に声が上がった。
「速っ」
誰かが言った。
白石くんは特に表情を変えなかった。
息も、あまり乱れていなかった。
……なんなんだ、あの人。
勉強もできて、運動もできて、おまけに顔まで整っている。
隙というものが、どこにもない。
放課後、そんな白石くんと二人で公園に向かうことになっている。
修行の初日は、虫の写真を眺める予定だ。
……放課後、男女二人、虫の写真。
……我ながら、シュールだと思う。
***
放課後。
私は白石くんより一足先に公園にやってきた。
部活を終えて、私はスマホに連絡を入れた。
既読がついて、数秒後に「今向かってる」と一言だけ返ってきた。
……文面は簡潔だ。
少し、切腹メールを期待していた自分がいた。残念。
あの仰々しさが恋しい。
ベンチに腰を下ろして、鞄の中を確認する。
スマホには虫の写真をいくつか保存してある。
図鑑サイトから集めてきた、なるべく鮮明なやつを。
自分で選んでおきながら、スクロールするたびに軽くぞわぞわした。
……私も苦手なんだった。すっかり忘れていた。
「お待たせ」
声がして、顔を上げた。
白石くんが、制服のまま立っていた。
いつも通りの涼しい顔。完璧な仮面。
「お疲れ様。生徒会、大変だった?」
「ううん、今日は早く終わったから」
白石くんは、私の隣のベンチに腰を下ろした。
……隣。
当たり前なんだけど。並んで座るのが自然なんだけど。
なんか、ちょっと、距離が近い。
肩が触れるわけじゃない。でも、こんなに近くで白石くんと並んだことって、今まであっただろうか。
授業中は席が離れているし。昨日一昨日は向かい合って座っていたし。
……考えすぎだ。修業に集中しよう。
「まずは写真を見るだけでいいから」
私はそう言いながら、スマホを取り出した。
すると白石くんが、画面を覗き込むようにわずかに身を傾けた。
近い。
……近い。
「見せる前に一個だけ聞いていい? 急に画面を向けたりしないから、心の準備ができたら教えて」
「……ありがとう」
素直な返事だった。
私はこっそり深呼吸して、フォルダを開いた。
一枚目は、モンシロチョウにした。
白くて、ふわふわしていて、一見かわいらしい。
ただし——ドアップで撮影された、複眼がくっきり映った写真を選んだ。
知ることが大事。知れば怖くなくなる。
そのためには、正面から向き合わなければいけない。
「……いい。見せて」
白石くんが言った。
私はゆっくりと画面を傾けた。
白石くんの表情が、見る間に変わった。
涼しい横顔が、じわじわと引きつっていく。
「これ、チョウチョ……?」
「そう、モンシロチョウ。かわいいでしょ」
「……複眼がすごいことになってる」
「知ることが大事だから」
「……そうだね」
全然納得していなさそうな顔で、白石くんはそう言った。
二枚目は、カブトムシにした。
ツノが立派な、正面からのアップ写真だ。
「これは……カブトムシ」
「そう。男の子って大体好きじゃない?」
「……好きじゃない」
即答だった。
しかも真顔で。
男の子ってカブトムシ好きなイメージあったけど、そうじゃない人もいるんだ。
というか白石くんに「男の子って大体」とか言ってしまった。
我ながら、雑なくくり方をしてしまった。
私はこらえきれずに、少しだけ笑った。
「ごめん、ごめん。次いくね」
三枚目は、アゲハチョウの幼虫にした。
緑と黒のしましまで、ふっくらとした、あの芋虫だ。
白石くんの口元が、かすかに歪んだ。
私とは反対側の向こうの手が、ベンチの端をそっと握った。
「……ちょっと待って」
「うん、待つ」
白石くんは、公園の木の方をじっと見ていた。
深呼吸しているのかもしれない。
肩が、かすかに上下している。
笑ってはいけない。
ぜったいに笑ってはいけない。
でも口の端が上がりそうで、私は慌てて下を向いた。
「……もう一回」
「うん」
白石くんが、また画面を向いた。
芋虫を、じっと見る。
五秒。十秒。
視線が逸れなかった。
「……見れた」
小さな声だった。
でも確かに、そう言った。
「見れたね」
私も、小さな声で返した。
白石くんが、ふっと息をついた。
頬が、うっすら赤い。
疑うな。畏れるな。そして知れ。
全ては知ることで救われる。
……救われるといいね、白石くん。
「次も、いける?」
白石くんは少しの間、空を見上げた。
それから、
「……いける」
と、短く答えた。
***
しばらく、二人でベンチに座ったまま、黙っていた。
風が吹いて、公園の木がさわさわと揺れた。
草の青い匂いと、花壇の花の甘い香りが混ざって、ふわりと漂ってきた。
五月の公園の空気は、まだ少し柔らかくて、どこか眠たくなるような温度だった。
「……吉野さんは、平気なの? 虫の写真」
突然、白石くんが聞いた。
「え?」
「さっきから、全然動じてないから」
「あー……。写真を選んでる時に、何度も見たから。見すぎて、ちょっと感覚が麻痺してきた感じで」
「感覚が麻痺」
「うん。正気に戻らなければ、何とかなる、みたいな」
白石くんが、少しの間、私の顔を見た。
それから、小さく笑った。
「……なんか、すごい克服の仕方だね」
「褒められてる気がしない」
「褒めてるよ」
視線は、まっすぐ前を向いたままだった。
さらりと、でも確かに言った。
なんか、ちょっと、どぎまぎした。
……これは単純に、褒めてもらえたのが嬉しかっただけだと思う。
断じて。
……たぶん。
白石くんは少しの間、また黙った。
それから、
「実物も、見てみようかな」
と、言い出した。
……え、思ったより積極的だ。
「い、いいの? 無理しなくて」
「写真で見れたなら、実物も同じはずだから」
そういう理屈らしい。
なんか、修業に対して真剣すぎて、逆に少し心配になってきた。
公園の端の方、花壇の近くに移動した。
五月の午後の日差しが、緑の葉っぱをきらきらと照らしている。
しゃがんで地面を見ると、すぐに見つかった。
「あ、蟻」
小さな黒い蟻が、花壇の縁を列になって歩いていた。
整然とした行列だ。
先頭の蟻が「急げ急げ」とでも言っているのだろうか。
後ろの蟻は「わかってるよ」と返しているのだろうか。
……脳内アテレコが止まらない。
白石くんが、私の隣にしゃがんだ。
じっと、蟻の列を見ている。
「……大丈夫、かも」
「本当に?」
「うん。なんか、小さいから。許容範囲」
蟻に許容範囲を設けている。
白石くんの虫との戦いは、なかなか奥が深い。
蟻:許容範囲。
芋虫:ベンチの端を握る。
脳内で勝手に虫との相性表を作り始めてしまった。
しばらく二人で蟻を観察した。
白石くんの表情が、少しずつほぐれてきた。
よかった。これは確かに手応えだ。
「……今日、体力測定あったね」
気づいたら、口をついて出ていた。
白石くんが、蟻を見たまま、
「うん」
「足、速いんだね」
「まあ、ね」
蟻の列を眺めながら、さらりと返した。
自慢でも、謙遜でもなく。
ただ、事実として。
「……なんか、悔しいな」
「え?」
「なんでもない」
白石くんが、少し首を傾けた。
でも、それ以上は聞かなかった。
二人で、また蟻を見た。
整然とした行列は、まだ続いていた。
そう思った、その時だった。
ブーン、という低くて太い羽音が、真横から聞こえてきた。
私と白石くんが、同時に振り向いた。
大きな黒い体。
丸々とした、毛並みのある胴体。
ゆっくりと、こちらに向かって飛んでくる。
クマバチだった。
「っ……!」
「ひっ……!!」
バタバタ!!
二人同時に立ち上がって、後ずさった。
白石くんの完璧な仮面が、一瞬で吹き飛んだ。
私も似たようなものだったと思う。
クマバチは、のんびりとした軌道で私たちの間を通り過ぎて、花壇の花にとまった。
そのまま、ぶんぶんと花の蜜を吸い始めた。
「おいしい」とでも言っているのだろうか。
二人で、しばらく固まったまま、そのクマバチを見つめた。
クマバチは私たちのことなど一切気にしていなかった。
完全に眼中にない。
蜜だけが全てらしい。
……なんか、少し悔しい。(?)
「……行こう」
白石くんが、静かに言った。
「……うん」
私たちは、足音を忍ばせるようにして公園を後にした。
***
公園を出てから、二人してしばらく無言だった。
学校の方向に向かって、並んで歩く。
歩幅が自然と揃っていた。
さっきまでクマバチに飛び上がっていた二人が、今は何事もなかったように並んで歩いている。
なんか、それがおかしくて、口の端が上がりそうになった。
信号待ちで足が止まった時、白石くんが口を開いた。
「……クマバチって、刺さないんだよね」
「刺さないらしいね。おとなしい種類だって」
「……そうか」
信号が青になった。
二人で歩き出す。
「でも、あの音はちょっとまずかった」
「まずかったね」
「……反射的に動いてしまった」
「私も」
白石くんが、少しだけ息をついた。
「野外は、まだ早かったかもしれない」
「……うん、そうかも」
私も正直、そう思っていた。
写真と実物の間には、まだ大きな壁があるらしい。
蟻は大丈夫だったけど、想定外の来客には二人ともまだ対応できなかった。
「次は、どうしようか」
白石くんが聞いた。
私は少し考えた。
「教室で、虫の絵を描くのはどうかな」
「絵?」
「うん。写真を見ながら、自分で描いてみる。じっくり観察することになるから、知ることに繋がると思って」
白石くんは、しばらく黙って歩いた。
「……描く、か」
「美術部員的な発想すぎた?」
「ううん」
白石くんが、前を向いたまま言った。
「……いいと思う。やってみたい」
その声が、なんとなく、少しだけ楽しそうに聞こえた。
気のせいかもしれない。
……たぶん、ね。
学校の前で、自然に足が止まった。
白石くんはこのまま校舎に戻るらしい。
生徒会の荷物を取りに行くのだろうか。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
白石くんは校門をくぐった。
私はその背中を見送った。
夕方の光の中を、真っ直ぐに歩いていく。
振り返らなかった。
いつも通り、涼しげで、完璧な後ろ姿だった。
さっき公園で、クマバチに飛び上がった人と、同一人物とは思えない。
あの収納スペース、本当にどうなってるんだろう。
***
ドサッ。
家に帰って、鞄を下ろして、ベッドに倒れ込んだ。
天井を見上げながら、今日のことを思い返す。
今日の悠星くん、なんか……変だったな。
変、というのとも少し違う。
苦手なものを本気で克服しよう、と――前向きで、真剣だった。
芋虫の写真を前にベンチの端を握りしめていた白石くん。
蟻をじっと観察しながら「許容範囲」と言った白石くん。
クマバチに飛び上がって、でも「次は絵を描いてみたい」と言ってくれた白石くん。
全部、学校では絶対に見られない顔だった。
それを見ているのは、今のところ私だけだ。
……なんだろう、これ。
胸の奥が、じわりとざわめいた。
窓の外で、夕方の風が吹いた。
断じて、これは何でもない。
……たぶん。
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