第3話:苦手なものリスト
「他にも、ちょっと」と言ったきり、白石くんは黙ってしまった。
視線が、机の上の参考書に落ちている。
ページをめくる気配はない。
急かすのも悪いな、と思って、私もしばらく黙っていた。
窓の外で、また電車の音がした。
「……暗いところも、ちょっと苦手で」
ぽつり、と白石くんが言った。
「暗いところ?」
「うん。暗くて、静かな場所。あと……お化けとか、そういうのも」
お化け。
あの白石悠星くんが、お化けが苦手。
私は一瞬だけ固まってから、「そっか」と短く返した。
ホラーじゃなくて、お化けって言うところが可愛い。
笑ってはいけない。ぜったいに笑ってはいけない。
「他には?」
「……驚かされるのも、ちょっと」
「驚かされるの?」
「急に大きな音とか、後ろから声をかけられるとか。そういうの」
あ。
それ、わかる。
ものすごく、わかる。
「……私も、それ苦手」
白石くんが、少し顔を上げた。
「驚かされるの?」
「うん。美術部の同期が、よく廊下から顔を出して脅かしてくるんだけど……毎回びっくりする。全然慣れない」
「……それは、慣れないと思う」
白石くんが、珍しく即答した。
しかも妙に真剣な顔で。
思わず目が合って、二人で少しの間、お互いの顔を見た。
それから、同時に少しだけ笑った。
「虫と、暗いところと、驚かされるの。他にもある?」
確認するように聞いたら、白石くんは少し考えてから、
「……だいたい、その三つ」
と答えた。
「だいたい、ね」
「だいたい、です」
また敬語になった。
なんで敬語になるんだろう、この人は。
でも今回は突っ込む間もなく、私は自分のことを思い返していた。
虫。暗いところ。驚かされること。
……全部、私も苦手だ。
というか、全部かぶってる。
一個も克服できていない。
「あの、白石くん」
「うん」
「私も、その三つ、全部苦手なんだけど」
白石くんが、目を丸くした。
「虫って、こっちに向かってくるやつが一番怖くない?」
気づいたら、口をついて出ていた。
白石くんが、びくっとしたように顔を上げた。
「……わかる」
「トンボとかが、ふらふら飛んでて、急にスーッてこっちに向かってきたことがあるんだけど。あれがもう」
「ゆっくりなのが余計に怖い」
「そう! 早かったらまだマシなんだけど。いや、それも怖いけど!」
「……なんで向かってくるの、あいつら」
あいつら、と言った。
トンボに「あいつら」と言った。
昨日、ゴキブリに「あいつ」と言っていたのを思い出した。
この人、虫に人格を感じる派らしい。
「ホラー系も、ゲームとか全然できなくて」
「僕も。ゲーム実況を見ようとしたら、怖い場面で動画を閉じた」
「わかる!! 私もそれやる!」
「……一回も敵に会わないまま閉じた」
「出会い頭で閉じてるじゃん!」
思わず声が大きくなってしまって、慌てて口を押さえた。
はっ、と自分の声の大きさに気づく。
放課後の誰もいない教室に、二人の声が響いた。
斜めに差し込む光の中で、白石くんが少し目を細めてこちらを見ている。
さっきまでの完璧な横顔ではなく、どこかほぐれた、そういう顔。
なんとなく、さっきより顔が近い気がした。
気のせいだと思う。
……たぶん、ね。
それから、白石くんがかすかに眉を寄せて、
「……修業、できる?」
「……やってみないとわからない」
二人で少しの間、黙った。
なんとも言えない沈黙だった。
頼もしい共犯者のはずが、二人してビビりだった。
その事実が、今さらながらじわじわと染みてくる。
ビビりの克服を、ビビりが手伝う。
なんというか、盲導犬が盲導犬に道案内してもらうような状況だ。
……。
我ながら、合ってるのかよく分からない例えをしてしまった。
……大丈夫か、私たち。
白石くんが、小さく息をついた。
「……まあ、二人でビビりながらやれば、なんとかなるかもしれない」
「……そうだね。たぶん」
「たぶん、ね」
今度は白石くんが繰り返した。
私が言った言葉を、そのままの温度で。
なんとなく、それがおかしくて、また少しだけ笑ってしまった。
「それで、修業の進め方なんだけど」
白石くんが、少し姿勢を正した。
さっきまでの、どこかぎこちない空気が、すっと切り替わった。
「まず虫から始めて、段階的にやっていこうと思ってる。一気にやろうとしても、たぶん無理だから」
「うん、そうだね」
「場所は、人目のない場所がいい。校舎裏とか、放課後の公園とか」
「秘密厳守で」
「そう。それが大前提」
白石くんの声は、いつもより少しだけ真剣だった。
完璧なカリスマが虫にビビっているところを誰かに見られたら、それはそれで大変なことになる。
私にはわかる。ものすごくわかる。
「時間は、放課後がいいと思う。最近は日も長くなっているし。私は部活があるから、終わってから」
「それで構わないよ。僕は生徒会があるけど、終わったら合流できる」
「じゃあ、お互い終わったら連絡するってことで」
「うん」
決まっていく。
ちゃんと、具体的に、決まっていく。
昨日の朝まで、白石くんとこんなに話すことになるとは思っていなかった。
一週間前の私に教えたら、たぶん信じないと思う。
「白石くんと秘密の修業をすることになった」って言ったら、「誰?」って返されそうだ。
いや、「白石くん」はわかるけど、イコールで結びつかないだろう。
「秘密の修業」の部分でも二度見されるか。
白石くんが、少しだけ間を置いてから、
「……よろしく」
と、短く言った。
視線は、机の上に落ちたまま。
「うん。よろしく」
私も、短く返した。
なんとなく、正面から目を合わせるのが照れくさかった。
なんでだろう。
……なんでだろう?
教室を出たのは、それからしばらく後のことだった。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
白石くんは席を立たなかった。
参考書を開き直して、まだ残るつもりらしい。
いつもの習慣なのだろう。
一昨日もそうだったように。
私は鞄を持って、教室の扉に手をかけた。
振り返ると、白石くんはもう参考書に視線を落としていた。
完璧な横顔。いつも通りの、涼しい顔。
……さっきまで「たぶん、です」って敬語になってた人と、同一人物とは思えない。
あの完璧な仮面、いったいどこに収納されているんだろう。
特注の収納スペースでもあるのかな、白石くんの中に。
カタン。
私は小さく息をついて、扉を閉めた。
廊下は夕方の光に染まっていて、窓の外の空がオレンジから紫に変わりかけていた。
昨日の部活帰りに見た空と、同じ色だ。
でも昨日とは、なにかが違う気がした。
これ、本当にできるのかな。
虫の写真を見て、暗いところに入って、びっくり系も克服して。
私、ビビりのくせに、ビビりの人の修業の手伝いをするって、どういうことなんだろう。
冷静に考えると、なかなかに無謀な気がする。
でも。
……でも、なぜか嫌じゃなかった。
不思議と。
白石くんの「よろしく」という声が、まだ耳の中に残っていた。
視線を落としたまま、短く、でも確かに言った、あの声。
……なんでだろう。
また、「なんでだろう」だ。
最近、なんでだろうが多い気がする。
このペースでいくと、そのうち「なんでだろう」だけで一日が終わりそうだ――私の語彙、大丈夫か。
夕暮れの風が、少し冷たかった。
でも、悪くなかった。
私は少し早足になって、夕暮れの道を歩いた。
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