第2話:昨日のこと、今日のこと
次の日。
今朝の私は、いつも通りの時間に登校した。
いつもの時間。
いつもの教室。
穏やかに賑やかな雰囲気だ。
ホームルームが始まる前から、白石くんはいつも通りだった。
「白石、昨日の数学の宿題ってどうやって解いた?」
「ああ、あれは……」
前の席の男子が振り返って声をかけると、白石くんはすっと教科書を取り出した。
手短に、でも的確に説明する。
相手が頷くまで待って、それからさりげなく視線を参考書に戻す。
押しつけがましくない。でも、ちゃんと届く。
隣の席の女子が、困った顔で消しゴムを探していた。
白石くんは何も言わず、自分の筆箱から予備の消しゴムをそっと机に置いた。
女子が気づいて「ありがとう」と言うと、白石くんは小さく頷いただけだった。
見ていた周りが、なんとなく温かい顔になった。
「白石くんって本当に頭いいよねー」
斜め前の女子が感嘆したように言った。
「そんなことないよ」
白石くんは笑って、でも嫌みにならない程度に否定した。
その塩梅が、また完璧だった。
こういう人が生徒会にいるのは、なんとなく納得がいく。
廊下を歩けば視線が集まる。
それでも本人はどこか涼しい顔をしていて、うっとうしそうにするでもなく、かといって調子に乗るでもなく、ただ静かに、自然に、完璧でいる。
……なんなんだ、あの人。
本当に、なんなんだ。
私はこっそりスマホを膝の上に置いて、画面を開いた。
昨夜届いていたチャットを、もう一度読む。
────────────────
白石悠星
突然個人宛に連絡してしまい、ごめんなさい。
クラスのグループチャットから、勝手に吉野さん宛ての連絡先を取得して連絡させていただきました。
また、今朝は助けていただき、ありがとうございました。
もしよろしければ、今後のことについて少し相談させてください。
明日の放課後、部活が終わったタイミングで教室に来ていただくことは可能ですか。
────────────────
……丁寧すぎる。
「助けていただき」って。
一緒にゴキブリから逃げただけだよ。
しかも「もしよろしければ」って何。
どこのビジネスメールだ。
文面だと距離感苦手なのかな。
へりくだり過ぎて面白いから、こっそり『切腹メール』とでも呼んでおこう。
私は思わず口の端が上がりそうになって、慌てて引き結んだ。
顔を上げると、白石くんがちょうど先生の質問に答えているところだった。
澄んだ声で、迷いなく。
完璧な横顔。
あの人が、昨日「うわっ」って叫んだ。
あの人が、耳を赤くして「笑っていいよ」と言った。
あの人が、頼りなげな声で「秘密にしてくれる?」と言った。
……なんなんだろう、ほんとに。
***
放課後、部活を終えた私は美術部の同期に一声かけて、教室への廊下を歩いた。
「えー、今日も一緒に帰れないの?」
「ごめん、ちょっと用事があって」
「用事って何ー?」
「……ちょっと、委員会的な」
嘘をついた。
委員会なんて入っていないのに。
口から出まかせにしては、なかなかぼろが出そうな嘘だ。
というか「委員会的な」って何だ。
委員会的な、って。
委員会に的なってつけたら何でも誤魔化せると思ってるの、私。
同期は「ふーん」と首を傾けたけれど、それ以上は追いかけてこなかった。
教室の前に立って、引き戸に手をかける。
昨日の朝とは違う。今日は怖い声も聞こえていないし、ゴキブリもたぶんいない。
スーッ……。
深呼吸して、扉を開けた。
「あ、来てくれた」
白石くんは、自分の席に座っていた。
昨日の朝は渡辺くんの席だったけど、今日はちゃんと自分の席だ。
ゴキブリへの警戒が解けたらしい。
机の上には参考書が開いてある。
どのページまで読み進んだのか分からないが、付箋がいくつか貼られていた。
……結構、待っていたんじゃないだろうか。
「お待たせ、しました」
「ううん、僕も今来たところだから」
付箋の数が、その言葉を静かに否定していた。
でも私は何も言わなかった。
私の席は廊下側の後ろから二番目だ。
白石くんの席とはだいぶ離れている。
このまま自分の席に座ったら、会話するのにかなりの距離を挟んで叫ぶことになってしまう。
ガタッ。
私は少し迷ってから、白石くんの前の席の椅子を引いて、くるりと向きを変えて腰を下ろした。
白石くんが、少しだけ目を丸くしてから、参考書をそっと脇に寄せた。
「……ん」
それだけだった。
……「ん」って何だろう。
了承? 歓迎? それとも単なる相槌?
一文字に込められた意味を解読しようとして、私は静かに諦めた。
でもなんとなく、悪くない気がした。
***
白石くんの前の席に座って、少しの間、妙な静けさが流れた。
夕方の教室には、昼間とは違う静けさがある。
チョークの粉と日光の残り香が混ざったような匂い。
斜めに差し込む光が机の表面に細長い影を作って、その中に二人だけがいた。
何か言わなければ、という気持ちと、何を言えばいいのかわからない気持ちが、同時にあった。
「……白石くんって、いつもこんなに遅くまで残っているの?」
口をついて出てから、少し後悔した。
余計なことを聞いてしまったかもしれない。
「昨日の朝も、すごく早かったし。夕方もいつも残ってるのかなって」
白石くんは一瞬だけ間を置いて、「まあ、ね」と短く答えた。
それ以上は何も言わなかった。
そっか、と私も短く返して、また黙った。
追いかけて聞けるような雰囲気でもなかったし、そもそも私にそんな勇気はない。
白石くんが、窓の外に視線を向けた。
ほんの一瞬だけ。
夕暮れの空を見ているのか、それとも全然別の何かを見ているのか、わからなかった。
ただ、いつもの涼しい横顔の中に、かすかに何かが混じっていた気がした。
遠い場所を見るような、そういう目。
……なんで、あんな顔をするんだろう。
聞けなかった。
聞けるわけもなかった。
ガタン……、ゴトン……。
窓の外で電車の音がして、また静かになった。
しばらくして、白石くんが「それで」と口を開いた。
いつもの涼しい顔に、戻っていた。
さっきの横顔が、まるで見間違いだったみたいに。
「修業のこと、なんだけど」
白石くんが、少し声を落として言った。
秘密の話をする時の声だ、とすぐにわかった。
「うん」
「一番、克服したいのは虫なんだ。少しずつ、段階的に、慣れていきたいかなって」
「そうだね。いきなり本物はハードルが高いし」
「……そう。そう、なんだよね」
白石くんが、少しだけ眉を寄せた。
本物、という言葉に反応したのかもしれない。
私は慌てて続けた。
「写真から始めるのはどうかな。まず見ることに慣れて、それから……段階的に」
「写真」
「うん。図鑑とか、スマホの画像とか。見るだけなら、できそうじゃない?」
白石くんは少しの間、窓の外を見た。
真剣に考えているのか、それとも現実逃避しているのか、判断がつかなかった。
「……できる、と思う。たぶん」
「たぶん、ね」
「たぶん、です」
なぜか敬語になった。
なんで敬語になったの、白石くん。
突っ込む間もなく、私はこらえきれずに、少しだけ笑った。
「私も正直、虫は怖いけど。でも、きっと大丈夫だと思う」
「……根拠は?」
「前にやったゲームで、印象に残ってる言葉があって。『疑うな。畏れるな。そして知れ。全ては知ることで救われる』って」
白石くんが、少し目を細めた。
「……ゲームの言葉」
「うん。なんか、すごく好きで。知れば怖くなくなる、って信じたいんだよね。私も」
言いながら、少し恥ずかしくなった。
ゲームの台詞をそのまま引用するのは、我ながらちょっと真剣すぎたかもしれない。
でも白石くんは笑わなかった。
少しの間、窓の外を見て――それから静かに言った。
「……そうかもしれない」
否定じゃなかった。
白石くんの視線が、窓の外からこちらに戻ってきた。
ほんの少しだけ、さっきより近い距離で。
「あと、虫だけが苦手なの?」
聞いてから、少し余計だったかなと思った。
でも白石くんは逃げなかった。
ただ、かすかに視線を落として、
「……他にも、ちょっと」
もごもごと、そう言った。
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