第1話:放課後の怪事件
白石悠星くんのことを、好きというわけじゃない。
ただ、遠くから眺めるだけで、なんとなく空気が澄む気がするのだ。
憧れ、というやつだと思う。
アイドルのポスターに胸を高鳴らせる感覚と、たぶん大差ない。
そう、これは恋じゃない。断じて。
……たぶん。
白石くんは、クラスの中心にいる。
いつも。どんな時でも。
先生の質問には的確に答えるし、体育の授業では誰よりも颯爽としている。
おまけに顔まで整っているものだから、廊下を歩くたびに視線が集まる。
それでも本人は、どこか涼しい顔をしている。
うっとうしそうにするでもなく、調子に乗るでもなく。
ただ静かに、自然に、完璧でいる。
…………なんなんだ、あの人。
あんな人本当にいるんだ。
私、吉野めいは美術部員だ。
放課後は部室にこもって、黙々と絵を描く。
誰かに話しかけるのも話しかけられるのも、どちらかといえば苦手。
できれば今日も明日も、静かに過ごしたい。
そういう人間だ。
白石くんとは、同じクラスというだけで、接点はほぼない。
新年度が始まってまだ席替えもしていないクラスは、出席番号順の席だ。
白石くんの席は私の席から遠い。
話したこともほとんどない。
だから、これは憧れだ。
遠くから眺めて、ちょっとだけ「すごいな」と思う、ただそれだけの感情。
そう。それだけ。
……それだけのはずだった。
***
その日の締めくくりとなるホームルームが終わった瞬間、廊下側の窓からひょっこり顔が覗いた。
「めいー!! 一緒に部活行こー」
「ひょあっ!!」
美術部の同期、別クラスの子だ。
廊下からわざわざ顔を覗かせて、驚かそうと声をかけてくるのはいつものことだった。
「あっははは。めいはホントにビビりだなぁー」
「も、もう! いつも言ってるでしょ。いきなり目の前に顔を出さないでよ……。心臓に悪い……」
「ごめんごめん。めいの反応が面白くってさぁー」
「むー。もういい、すぐ行くから待ってて」
返事をしながら、急いで鞄に荷物を詰め込む。
筆箱、スケッチブック、えーと、他に何かあったっけ。
「早くー」
「わかってる、ちょっと待って」
なんでこの子はいつもこんなに早いんだろう。
ホームルーム終わってまだ三十秒も経ってないのに。
私は鞄を肩にかけ、小走りで廊下へ出た。
***
部室に着いてしまえば、あとは静かなものだった。
キャンバスに向かって筆を走らせていると、余計なことを考えなくていい。
頭の中が、絵のことだけになる。
これだから美術部はやめられない。
窓の外が、じわじわとオレンジから紫に変わっていく。
五月になって日が長くなってきたが、もうこんな時間になったのか。
もう少しだけ、あとこの部分だけ描いたら——そんなことを思っていたら、部長の声が部室に響いた。
「はい、今日はここまでー。片付けてー」
はーい、という声が部室のあちこちから上がる。
私も筆を置いて、パレットを洗い始めた。
帰ったら宿題もしなきゃな。
確か明日の一限に提出だっけ。
あのプリント、どこにしまったっけ——
「あ」
声が出た。
鞄の中を探って、探って——ない。
どう考えても教室の机の中に入ったままだ。
「めい、帰ろー」
片付けを終えた同期が声をかけてくる。
「ごめん、教室に忘れ物しちゃった。先に帰ってて」
「えー? もー、気をつけなよ」
「……わかってる」
返す言葉もない。
私は鞄を持って、教室までの道を戻った。
***
廊下はすでにひっそりとしていた。
部活動の喧騒も、どこか遠くなっている。
夕方の校舎特有の匂いがした。
埃と、窓から忍び込む夜の手前の空気と、誰かが使い終わった絵の具の名残のような、そういう匂い。
自分の足音だけが妙に響いて、少しだけ早足になる。
教室の扉の前に立って、引き戸に手をかけた、その時だった。
「そこで止まれ。一歩でも動いたら容赦しない……」
(ひっ!)
低い。
ものすごく、低い声だった。
それでいて静かで、けれど確かな殺気を帯びていて——私の手が、引き戸の上で完全に止まった。
心臓が、跳ねた。
頭の中で、何かが猛スピードで警報を鳴らしている。
(揉め事だ。絶対に揉め事だ?!)
相手は誰だろう。
何があったんだろう。
そもそもあの声は——
声は、聞き覚えがあった。
いや、まさか。
いやでも、あの低音は——
白石くん、だろうか?!
考える前に、足が動いていた。
プリントのことなど、綺麗さっぱり忘れて。
怖い。とにかく怖い。
あの完璧で穏やかなはずの白石くんが、あんな声を出すなんて。
私、何も見ていません! 何も聞いていません!
廊下を早足で、いや小走りで、昇降口に向かった。
心臓がまだうるさかった。
家に帰り着いてから、プリントのことを思い出した。
……明日、早く行くしかない。
***
翌朝、私は人生で一番早く家を出た。たぶん。
始発ではないが、かなり早い時間の電車に乗り、誰もいない廊下を歩いて教室の扉を開ける。
プリントを回収して、宿題を済ませて、何事もなかったように一日を過ごす。
うん、昨日の失態を挽回する完璧な計画だ。
我ながら天才かもしれない。
そのはずだった。
「おはよう」
「……っ!?」
心臓が、止まるかと思った。
教室の中に、人がいた。
しかも——しかもなんで——渡辺くんの席に、白石くんが座っているの?!
真っ先に頭をよぎったのは、昨日の声だ。
あの低くて静かで、でも確かな殺気を帯びた声。
そしてそれを発したであろう人物が今、穏やかな顔で私を見ている。
「あ、えっと……おはよう、ございます」
「ふふ。なんで敬語?」
声がかすれた。
我ながら不審すぎる。
白石くんはそれ以上何も言わず、手元の参考書に視線を戻した。
私はそっと自分の席に滑り込んだ。
机の中からプリントを引っ張り出して、広げて、シャープペンを持つ。
でもなんで渡辺くんの席なんだろう。
渡辺くんの席といえば、私のすぐ後ろだ。
つまり今、背後に白石くんがいる。
昨日あの声を聞いた相手が、真後ろにいる。
……宿題が、全然頭に入ってこない。
ちらり、と後ろを盗み見る。
白石くんは参考書を読んでいた。
表情は静かで、涼しくて、完璧で。
昨日の声が嘘みたいだ。
でも嘘じゃない。
私はちゃんと聞いた。
『そこで止まれ。一歩でも動いたら容赦しない……』
ブルッ……。
昨日の声がまだ耳に残っている。
あの殺気を帯びた声を思い出すと、小心者の私の心臓は縮こまってしまう……。
べ、別のことを考えよう。
(なんで渡辺くんの席なんだろう)
気になって仕方がなかったけれど、聞けるわけがない。
うっかり、昨日のことを知っているとバレたら、どうなるか。
あの声の主に、目をつけられたら。
思考がどうしても昨日のことに引きずられる。
私はプリントに視線を戻した。
問題文を読む。
読むけど、頭に入ってこない。
シャープペンの先が、空白の答案欄の上で止まったままだ。
静かだった。
教室に二人きりで、外からは朝の鳥の声が聞こえるだけで、妙に時間がゆっくり流れる気がした。
五月の朝の空気は、まだ少し冷たい。
窓の隙間から入り込んでくる風が、頬をかすめるたびに、ここが二人きりの密室であることを思い出させる。
永遠にも思えたその静けさが、唐突に破れた。
カサカサ、カサカサ……。
「——っ」
視界の端で、何かが動いた。
反射的に目を向けて、私は声を上げた。
「きゃっ」
大きなゴキブリが、床を這っていた。
机のすぐ横を、堂々と。
「やぁ!」とでも言うようにこちらを見た!!
なんで目が合ってるの私?!
後ろで椅子を引く音がして、「どうし——」と声が上がりかけた次の瞬間。
白石くんも、見たのだろう。
「うわっ」
低音が、素っ頓狂な音になった。
(きゃぁぁああ!!)
私は声にならない声を心の中で叫び散らかした。
ガタガタッ!!
二人同時に、教室から飛び出す。
廊下に出てから、私はようやく息をついた。
心臓がうるさい。
でも昨日とは違う種類のうるささだ。
隣を見ると、白石くんが壁に背中をつけて、肩で息をしていた。
あの、完璧な白石くんが。
頬が、かすかに赤い。
視線は廊下の先に向いたまま、私と目を合わせようとしない。
「…………」
「…………」
沈黙が流れた。
私はそっと白石くんの横顔を盗み見た。
整った顔が、心なしか引きつっている。
なんだろう、この状況。
怖い人だと思っていたのに、今の「うわっ」は——どう聞いても、私と同じ種類の悲鳴だった。
「し、白石くん。あのゴ――」
あのゴキブリを何とかしてくれないか、と白石くんに頼もうとしたその時。
そこへ、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
「おー、二人とも朝早いわね。して、廊下で何してるのかしら?」
担任の田中先生だった。
小脇にファイルを抱えて、不思議そうにこちらを見ている。
私は反射的に口を開いた。
「あの、教室に、ゴキブリが……」
「あー、なるほどね」
先生はあっさり頷いて、教室の扉を開けた。
私たちは扉の外で、そっと息を潜める。
しばらくして、スパン、という乾いた音が響いた。
数秒後、先生が戻ってきた。
「対峙しといたわよ。ついでに出欠簿も取れた。一石二鳥ね」
そう言って、先生は何事もなかったように廊下を歩いていった。
残された私たちは、しばらく無言で見送った。
……先生、ありがとうございます。
心の中で深々と礼をした。
たぶん白石くんも同じ気持ちだと思う。たぶん。
***
教室に戻ると、さっきまでの緊張感が嘘みたいに静かだった。
私は自分の席に座り直して、放置していたプリントに視線を落とした。
手は動かない。
後ろで、白石くんが椅子を引く音がした。
しばらく、また沈黙が続いた。
「……吉野さん」
突然、名前を呼ばれた。
思わず背筋が伸びる。
「黙っていてほしいんだけど。僕がビビりだってこと」
え。
私はゆっくり振り返った。
白石くんは視線を窓の外に向けていた。
いつもと変わらない涼しい横顔。
でも、シャープペンを持つ指先が、かすかに白くなっている。
「いつもは、こんなんじゃないから。ただ……虫が、ちょっと苦手で」
ちょっと、という言葉の重みが、さっきの「うわっ」と全然釣り合っていない気がしたけれど、私は黙って続きを待った。
「昨日、放課後に教室でゴキブリを見てしまって。それで今日は……あいつがまだいるかもしれないと思ったら、自分の席に座れなくて」
あいつ、と言った。
ゴキブリに「あいつ」と言った。
私の中で、何かがすとん、と落ちた。
昨日の声。
あの殺気を帯びた低音。
『そこで止まれ。一歩でも動いたら容赦しない』——
相手は、人間じゃなかった。
ゴキブリ、一匹に。
あの完璧な白石悠星くんが。
本気で、怯えていた。
なんか、力が抜けた。
昨日からずっと張り詰めていた何かが、するすると解けていく感じがした。
怖い人だと思っていた。
修羅場に居合わせたと思っていた。
家に帰ってからも、ずっとドキドキしていた。
全部、ゴキブリのせいだったのか。
「……昨日の放課後、教室から聞こえてきた声って」
「うん?」
「ゴキブリに、言ってたの……?」
「……うっ、聞かれてたのか」
白石くんは観念したように頷いた。
耳の先が、心なしか赤い。
笑ってはいけない、と思った。
思ったけれど、口の端がどうしても上がってしまう。
必死に押さえていたら、白石くんが静かに言った。
「笑っていいよ」
「わ、笑わないよ……フュー、フュー」
「顔に出てる。あと、口笛吹けてない」
「……すみません」
「くっ、殺せ……」
「ふふっ」
結局、少しだけ笑ってしまった。
白石くんは恨めしそうな顔をしたけれど、怒ってはいなかった。
なんとなく、そう思えた。
笑いが収まってから、ふと気づいた。
私も、さっき、同じ声を上げた。
白石くんと一緒に、教室から飛び出した。
「私も、苦手なんだ。虫」
白石くんが、少し目を丸くした。
それから、ゆっくりとこちらを向いた。さっきまでの完璧な横顔ではなく、正面から。
「……そう」
「そう、なんです」
また静かになった。
でも今度の静けさは、さっきとは全然違った。
白石くんは少しの間、窓の外を見ていた。
朝の光が、教室に斜めに差し込んでいる。
遠くで、電車の音がした。
「秘密にしてくれる?」
静かな声だった。
昨日の低音とも、さっきの「うわっ」とも違う、どこか少しだけ頼りなげな声。
私は迷わず頷いた。
「言わないよ。誰にも」
「……ありがとう」
白石くんは外を向いたまま、小さくそう言った。
その横顔が、ほんの少しだけ、さっきより柔らかく見えた。
気のせいかもしれない。
私はプリントに視線を戻す。
さっきまで全然頭に入ってこなかった問題文が、するすると読めた。
シャープペンを走らせる。
後ろの席から紙をめくる音がした。
白石くんもまた、参考書を開いたのかもしれない。
しばらく、二人で黙って、それぞれの勉強をした。
窓から差し込む朝の光が、少しずつ角度を変えていく。
遠くで電車の音がして、また静かになる。
その繰り返しの中に、いつの間にか自分がいた。
不思議と、悪くなかった。
宿題を書き終えた頃、白石くんがまた口を開いた。
「吉野さんも、虫が苦手なんだよね」
「うん」
「……克服、したいと思ったことは?」
思いがけない問いに、私は少し考えた。
「できたら、いいなとは思うよ。でも、どうすれば」
「僕も、思ってる。ずっと」
白石くんの声は静かだった。
でもその静けさの中に、何か固いものが混じっている気がした。
しばらく、沈黙が続いた。
私はちらりと後ろを盗み見る。
白石くんは参考書に視線を落としていたけれど、ページをめくる気配がない。
私も、シャープペンを持ったまま、終えた宿題のプリントを見つめたまま、動けないでいた。
お互い、何か言いたいような、でも何を言えばいいのかわからないような、そういう空気だった。
……聞いてもいいかな。
「……白石くんって、いつもこんなに早く来てるの?」
口をついて出てから、少し後悔した。
余計なことを聞いてしまったかもしれない。
白石くんは一瞬だけ間を置いて、「まあ、ね」と短く答えた。
それ以上は何も言わなかった。
そっか、と私も短く返して、また黙った。
追いかけて聞けるような雰囲気でもなかったし、そもそも私にそんな勇気はない。
窓の外で、電車の音がした。
朝の光が、じわりと教室に差し込んでくる。
沈黙が、また続いた。
五秒か、十秒か。
もしかしたらもっと長かったかもしれない。
気づいたら、口が動いていた。
「……ねぇ、白石くん。一緒に、修業する?」
「……え?」
言ってから、自分でも驚いた。
慌てて振り向く。
白石くんが、顔を上げてこちらを向いた。
少し目を丸くして、それから——かすかに、だが確かにキラキラと笑った。
「あ、いや。違くて。二人だったら協力してビビりを克服できるかと思っただけで、変な意味は無くて。ごめ――」
「うん! 一緒にやろ!」
窓の外で、また電車の音がした。
「い、いいの?」
「むしろ、僕からお願いしたいと思ってたところだった! 嬉しいよ」
「……っ」
そんな眩しい笑顔を向けないでくれ。
ピカー、って輝いている。
まずい、このままだと影だけ残して私は消滅してしまう。
***
気づけばいつの間にか今日は終わっており、私は自分の部屋にいた。
もしかして、本当に消滅してしまい、ようやく体の再構成が終わったのだろうか。
死に戻りしていないよね。
スマホを見ると、確かに今日が終わるところだった。
昨日の昼間まで、白石くんは遠い人だった。
廊下を歩けば視線が集まって、先生の質問には的確に答えて、完璧に、自然に、涼しい顔でそこにいる人。
私とは住んでいる世界が違うと、なんとなくそう思っていた。
それが昨日の放課後、あの声を聞いてからは怖い人になって。
そして今日の朝、同じゴキブリから一緒に逃げ出して——気づいたら、秘密を共有していた。
誰も知らない、白石くんの素顔。
それを知っているのは、今のところ私だけだ。
……なんだろう、これ。
胸の奥が、じわりとざわめいた。
憧れとも、怖さとも、違う何か。
うまく名前のつけられない感情が、そこにある。
たぶん、これは——
いや、やめよう。考えすぎだ。断じて。
……たぶん。
こうして私たちの、秘密の修業が始まった。
これが、すべての始まりだったと、後になって思う。
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