第20話:夏の前に
七月に入った。
放課後の教室は、じわじわと蒸し暑かった。
窓を開けていても、外からぬるい風が入ってくるだけだった。
梅雨が明けきっていないのに、もう夏の匂いがした。
窓の外の空が、少し夏らしくなってきていた。
入道雲の手前みたいな、もくもくとした白い雲が遠くに見えた。
白石くんと向かい合って、今日の修業を始めた。
「今日は驚かし系にしよう」
私が言うと、白石くんが「そうだね」と返した。
驚かし系の修業は、難しい。
お互いに苦手だから、驚かす側も驚かされる側もなんか変な感じになる。
「じゃあ、私が驚かすね」
「うん」
白石くんが、机の上に手を置いて、真っ直ぐ前を向いた。
準備完了、という感じだった。
「……」
私は、タイミングを計り始めた。
五秒後か。
いや、もう少し待つか。
息を、ひそめた。
手のひらが、じんわりと汗ばんでいた。
……十秒。
……十五秒。
「……」
少し視線を外し、油断を誘う。
……白石くんは正面を向いているから、関係ないけど。
いいんだよ。
こういうのも、驚かすテクニックなんだよ。
きっと。
「……!」
白石くんの肩の力が、わずかに抜けた気がした。
今だ。
「わっ!」
白石くんの肩が、一瞬だけ、かすかに動いた。
「……かわぃ……じゃなくて、あんまり驚かないね」
白石くんが、涼しい顔で言った。
……え、今なんか言いかけなかった?
言いかけた?
でも「驚かないね」ってことは、修業として成功してないってこと?
言いかけた方が気になるけど、聞き取れなかった。
まあ、いいか。
「そっか、残念……難しいね」
私が言うと、白石くんが小さく「まあ、ね」と返した。
***
良い修業方法も思いつかないまま、二人でぼんやりしていた。
チィー。
外から、ニイニイゼミの声が聞こえ始めていた。
まだ控えめな声だったけど、確かに聞こえた。
もうそういう季節になったんだな、と思った。
「夏休み、修業どうしようか」
私が何となく言うと、白石くんが少し間を置いてから、
「続けよう」
と、言った。
迷いのない一言だった。
「できれば」とか「たぶん」とか、そういう言葉が一切なかった。
夏休みも、続く。
それだけのことなのに、なんか、胸のあたりが少し軽かった。
……修業が続くから、だと思う。
たぶん。
なんで嬉しいんだろう、とは思った。
でも深く考えるのをやめた。
「場所どうする? 学校も使えないことはないだろうけど……」
「図書館とか、公園とか」
白石くんが、さらっと答えた。
もう考えていたんだ、と思った。
「あとは……」
白石くんが、少し言いよどんだ。
「虫が少ない場所」
真顔で言った。
……それ、修業と矛盾してない?
「それ修業と矛盾してない?」
思わず言ったら、白石くんが涼しい顔で、
「段階的に、でしょ」
と返した。
……まあ、そうなんだけど。
虫の少ない場所で修業するって、なかなかのビビりムーブだと思う。
でも言い返せなかった。
だって、私も虫は少ない方がいい。
二人して、少し笑った。
「夏休みって、どこかで待ち合わせるの?」
聞きながら、少し変な質問だったかな、と思った。
待ち合わせ、という言葉が、なんかこう、響きが違う気がして。
「図書館とか、公園とか」
白石くんが、さっきと同じ答えを繰り返した。
現地集合ってことね。
了解であります。
「修業の場所が増えるね」
私が言うと、白石くんが「そうだね」と短く返した。
修業の場所が増える。
それはつまり、修業が続く、ということだ。
白石くんに、また会える。
……なんか、それだけで少し気持ちが軽くなった気がした。
なんでだろう。
まあ、でも。
考えなくていいことは、考えなくていい。
帰り支度をしながら、窓の外をちらっと見た。
空が、オレンジ色に染まり始めていた。
廊下に出ると、夕焼けが窓の向こうに広がっていた。
雲が、燃えるみたいな色をしていた。
……もう夏だな。
白石くんは、居残りの準備をしていた。
その後ろ姿が、夕焼けの光の中に溶けていた。
なんか、きれいだな、と思った。
夕焼けが、という話だけど。
別れ際、白石くんが振り返った。
「じゃあ、また」
「うん。また」
それだけだった。
それだけなのに、なんか、少し名残惜しかった。
……名残惜しい?
修業が終わっただけなのに?
まあ、いい。
一人で電車に乗って、窓の外を見た。
夕焼けが、だんだん暗くなっていく時間だった。
空の端っこが、オレンジから紫に変わりかけていた。
ぼんやりと、今日のことを思い出した。
「続けよう」という一言。
迷いのない声。
虫が少ない場所、という条件。
段階的に、という返し。
……おかしいな。
全部、笑える話ばっかりなのに。
でも、なんか全部、頭に残っている。
この修業、夏が終わっても続くのかな。
ふと、そう思った。
夏が終わったら。
秋になったら。
冬になったら。
……答えは出なかった。
出なくていい気もした。
電車が、駅に着いた。
***
家に帰ってしばらくしたら、スマホが鳴った。
桜ちゃんからだった。
────────────────
ねぇ、めい
来月花火大会あるんだけど一緒に行かない?
────────────────
……花火大会。
なんか急に夏っぽくなってきた。
お姉ちゃんも誘って、車出してもらおうかな。
返信しながら、なんとなく、白石くんは花火大会とか行くのかな、と思った。
……べつに、関係ないけど。
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