第19話:白石くんと絵
美術部の作品展示の時期になった。
廊下の壁に、部員の作品が一枚ずつ貼り出されていく。
美術室の前の廊下が、この時期だけ小さなギャラリーみたいになる。
去年も同じだったな、と思いながら廊下を歩いた。
放課後、部室を出て廊下を歩いていた。
外は雨で、窓の向こうがぼんやり白く霞んでいた。
湿った空気が廊下まで漂ってきて、梅雨だな、と思った。
廊下に並ぶ作品たちが、曇り空の光の中にしっとりと浮かんでいた。
教室に向かうために、美術室前の廊下を通ろうとした。
自分の作品の前で、誰かが立ち止まっていた。
白石くんだった。
……え。
足が止まった。
白石くんは、私の絵の前に立って、じっと見ていた。
腕を組んでいるわけでも、難しい顔をしているわけでもなく。
ただ、静かに、見ていた。
こちらには気づいていないようだった。
逃げようと思った。
というか、静かに通り過ぎようとした。
そう、べつに逃げではない。
ただ、なんとなく、気づかれる前に通過した方がいい気がしただけだ。
足音を殺して、横を通り抜けようとした。
「あ、吉野さん」
呼び止められた。
……気づかれていた。
「これ、吉野さんの?」
白石くんが、絵の方を見たまま聞いた。
頷いた。
声が出なかった。
「雨の中なのに、なんか明るい絵だね」
白石くんが、ぽつりと言った。
……明るい。
その言葉が、少し意外だった。
梅雨をテーマに描いたから、暗い印象になるかな、とは思っていた。
でも白石くんは、迷いなく「明るい」と言った。
「……わかる?」
気づいたら、口が動いていた。
「うん。なんか、光ってる感じがする」
白石くんが、絵のアジサイの部分を指さした。
光の部分を、ちゃんと見てくれていた。
なんか、嬉しかった。
……いや、待って。
ちゃんと見てくれているなら、説明したい気持ちが出てきてしまった。
美術部員の悪い癖だ。
「あのね、このアジサイ、ちょっとだけ光を放ってるイメージで描いたんだよね。悪いものを近づけないような、そういう感じの光」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
絵の解説を自分からし始めるのって、なんかこう、熱量が出てしまう。
白石くんは、黙って聞いていた。
うんともすんとも言わず、絵を見ていた。
でも、ちゃんと聞いてくれている感じがした。
「あと、ここ」
アジサイの葉の部分を指さした。
「葉の裏に、蝶々がいるんだよね。逆さに留まって、雨宿りしてる」
白石くんが、少し顔を近づけて葉の裏を見た。
しばらく、黙ったままだった。
「……ほんとだ」
小さく言った。
ちゃんと見つけてくれた。
「蝶々、ちゃんと描けてるね」
白石くんが、短く言った。
それだけだった。
でも、なんか、それだけで十分だった。
白石くんは、もう一度絵全体を見た。
それから、
「修業の成果かな」
と、確かめるように言った。
……修業の成果。
その言葉が、じわっと染み込んできた。
蝶々を描けたこと、虫が怖かったのに描けたこと、光のイメージを絵に込められたこと。
そういうことを、白石くんは全部わかった上で言ってくれている気がした。
胸の奥が、なんかあたたかくなった。
「……うん、白石くんのおかげだよ」
はにかみながら、言った。
嘘じゃなかった。
白石くんが、少しの間、黙った。
表情が、読めなかった。
何かを考えているのか、それとも特に何も考えていないのか。
いつもの涼しい顔とも、少し違う気がした。
でも、何がどう違うのかは、うまく言えなかった。
「……教室、行こうか?」
白石くんが、静かに言った。
「あ、そうだった」
完全に忘れていた。
修業のために教室に向かうところだったのに、絵の解説に夢中になっていた。
「じゃあ、一緒に行こ」
「うん」
白石くんが、短く返した。
私たちは教室に向かって歩き出した。
並んで歩いた。
歩きながら、なんとなく振り返りたい気持ちになった。
でも振り返らなかった。
なんでだろう、と思いながら。
***
その頃、廊下の角では、宮田桜が腕を組んで、しみじみとしていた。
***
教室に入った。
自分の席に座った。
カバンを机の横にかけた。
……なんか、動揺している気がする。
自分でも、なんでかよくわからなかった。
なんで動揺してるんだろう。
落ち着いて考えてみた。
白石くんに絵を褒められた。
それだけだ。
でも、なんで嬉しかったんだろう。
白石くんに褒められたから?
それとも、自分の絵をちゃんと見てもらえたから?
……たぶん、後者だ。
自分の好きなことを、ちゃんと見てくれた人に褒められたから嬉しかった。
それだけのことだ。
白石くんが誰であっても、ちゃんと見てくれた人なら嬉しかったはずだ。
……うん。
それだけのことだ。
……たぶん。
机の上に頬杖をついた。
窓の外を見た。
梅雨曇りの空が、どんよりしていた。
雨粒が、窓ガラスをゆっくりと伝っていた。
そういえば、と思った。
白石くんって、絵が好きなんだよね。
いつだったか、「絵は好きだから」って言っていた。
絵が好きな人に、自分の絵を褒めてもらった。
……それが、嬉しかったのかな。
なんか、また少し動揺した気がした。
***
帰り道、電車の中でまだ考えていた。
白石くんに褒められたのは、今日が初めてじゃない。
テストの点数も褒めてもらった。
ペンの持ち方も褒めてもらった。
その時も嬉しかったけど、今日みたいな動揺はなかった気がする。
なんで今日はこんなに動揺してるんだろう。
考えた。
電車の窓に流れる景色を見ながら、考えた。
……わからなかった。
答えが出ないので、別の方向から考えることにした。
「雨の中なのに、なんか明るい絵だね」
あの一言が、なんか、ずっと頭に残っていた。
テストの点数を褒められた時と、何かが違った。
ペンの持ち方を褒められた時とも、何かが違った。
何が違うんだろう。
……わからなかった。
もう考えるのをやめることにした。
「……褒められたのは絵だしね。絵の話だしね。全然関係ない」
小声で、自分に言い聞かせた。
電車の音にかき消されて、誰にも聞こえなかった。
……たぶん。
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