第18話:暗闇と、アロマと
翌日の放課後、白石くんと一緒に電車に乗った。
……うん。
改めて言うと、なかなかすごい状況だ。
席に並んで座って、窓の外を見た。
雨が降っていた。
窓ガラスに雨粒がぶつかって、細い筋を引きながら流れていった。
白石くんは涼しい顔で、スマホを見ていた。
いつも通りだ。
全然普通にしている。
私は全然普通にできていなかった。
家に男子を招くのは、たぶん小学生の時以来だ。
あの時は、同じ班の男子を何人かで呼んで、宿題をやったやつだ。
あれとこれは、全然違う。
でも、比較対象がそれしかなかった。
……修業だから。
修業の場所として、提案しただけだから。
それだけだ。
「次、降りる?」
白石くんが、さりげなく聞いてきた。
スマホから目を上げて、窓の外の駅名を確認していた。
私は「あ、うん」と返した。
さりげなく確認してくれるの、なんか、地味に助かる。
そういうところ、白石くんはいつも自然だ。
……断じて、だからどうとかいう話ではない。
***
家に着いた。
家には誰もいなかった。
玄関を開けながら、「どうぞ」と言った。
我ながら、声が少し上ずった気がした。
白石くんが、靴を脱いで、廊下に上がった。
当たり前のことなのに、なんかすごく、現実感があった。
階段を上って、私の部屋のドアを開けた。
白石くんが、後ろからついてくる足音がした。
静かな家の中に、二人分の足音が響いていた。
白石くんが、私の部屋に入った。
少しの間、部屋の中をゆっくり見渡していた。
スケッチブックが積んであるのとか、絵の具が並んでいるのとか、本棚に挟まった写真集も。
視線が、静かにいろんなところを移動していた。
急いで片付けておくべきだったかな、と今さら思った。
「思ったより、らしい部屋だ」
白石くんが、ぽつりと言った。
「らしい、って何が」
「美術部っぽい」
そう言って、少し目を細めた。
悪い意味じゃないらしかった。
なんか、見られた気がして、少し照れた。
自分の部屋を褒められるのって、こんな気持ちになるんだ、と思った。
……修業の場所として来てもらっているので、インテリアの話をしている場合ではない。
「じゃあ、準備するね」
私は、棚からアロマキャンドルを取り出した。
「これ、アロマキャンドル。リラックス効果があるらしくて。それに、いきなり真っ暗にするんじゃなくて、仄かな明かりで練習するのがいいって話だから」
説明しながら、キャンドルをテーブルの上に置いた。
「……なんの香り?」
白石くんが、少し顔を近づけながら聞いた。
「ラベンダー」
「そっか」
白石くんが、小さく頷いた。
それだけだった。
でも、なんか、ちゃんと聞いてくれた感じがした。
カーテンを閉めた。
分厚いカーテンで、外の光がほとんど遮られた。
外は雨だった。
さっきから、窓を叩く雨音が続いていた。
電気を消す。
パチッ。
一瞬で、部屋が暗くなった。
学校の教室とは、全然違った。
本当に、ちゃんと暗かった。
……あ。
自分の部屋だけど、夕方なのにいきなり暗くなった部屋は、少し怖かった。
暗闇の中に何かがいるような気がして、背筋が少し縮む。
感覚が、じわじわと研ぎ澄まされていく感じがした。
雨音が、さっきより大きく聞こえた。
シュボッ。
アロマキャンドルに火をつけた。
ちいさな炎が、ゆらっと揺れた。
暗闇の中に、仄かなオレンジの光が生まれた。
ラベンダーの香りが、静かに広がっていった。
思ったより、悪くなかった。
真っ暗よりは、ずっとましだった。
炎の揺らめきを見ていると、少し気持ちが落ち着いてくる感じがした。
雨音が、続いていた。
小さな炎に照らされ、白石くんの顔が見える。
白石くんは、炎をじっと見ていた。
その横顔が、オレンジ色の光に照らされて、いつもと少し違う感じがした。
完璧な仮面じゃない、というか。
ただ、静かに炎を見ている、という感じだった。
しばらく、二人で黙って並んで座った。
静かだった。
雨の音と、炎の揺れる音だけがあった。
遠くで、雷が鳴った。
ゴロ、と低い音が響いて、私の肩が少し上がった。
白石くんの気配も、一瞬だけ変わった気がした。
「……怖い?」
気づいたら聞いていた。
白石くんが、少しの間、黙っていた。
いつもなら、すぐに「まあ、ね」とか返ってきそうなのに。
その間が、なんか珍しかった。
「……少し」
低い声で、そう言った。
「でも、思ったよりは」
続けて、白石くんが言った。
少し間を置いてから、
「吉野さんがいるから、かな」
と、小さく言った。
返事が、出てこなかった。
なんて返せばいいんだろう。
「そっか」って言えばよかった。
「よかった」って言えばよかった。
でも、どちらも、なんか違う気がして。
炎が、ゆらっと揺れた。
暗闇の中で、白石くんの気配がすぐ近くにある。
いつもの教室より、ずっと近い。
ラベンダーの香りが、ふわっと漂った。
……なんか、いろんなものが、近かった。
炎の揺らめきで、白石くんの輪郭がぼんやり見えた。
また、遠くで雷が鳴った。
さっきより、少し近い気がした。
その瞬間、なんとなく、指先が動いた。
……あ。
動きかけた指先を、止めた。
なんで動きかけたんだろう。
わかってる、わかってるけど。
でも、それは、ちゃんとダメだ。
勝手に触れるのは、よくない。
相手がどう思うかわからないのに、無断で触れるのは、失礼だ。
それは、ちゃんとわかっている。
指先を、膝の上に戻した。
「なんか、手とか……いや、なんでもない」
気づいたら、声に出ていた。
繋ぎたい、って続けそうになった。
……なんで声に出したんだろう。
言わなければよかった。
言いかけたことの方が、よっぽどまずかった。
「何?」
白石くんが、静かに聞いてきた。
暗闇の中で、視線がこちらを向いた気がした。
「な、なんでもない!」
首を横に振った。
顔が熱くなった。
暗くてよかった、と心底思った。
しばらく、また沈黙が続いた。
雨音が、ずっと窓を叩いていた。
炎が、ゆらゆらと揺れていた。
ラベンダーの香りが、部屋に満ちていた。
なんか、変な感じだった。
怖いのか、怖くないのか、よくわからなかった。
暗闇の怖さは、確かにあった。
でも、それ以外の何かが、もっと大きくなっていた気がした。
「吉野さんって」
白石くんが、静かに言った。
「なに」
「香りのセンス、いいよね」
少し、驚いた。
「……そう?」
「うん。前に香水……いや、なんでもない」
白石くんが、途中で止まった。
ん?
「何?」
「なんでもない」
今度は白石くんが、短く返した。
視線を、炎の方に戻した。
それ以上、何も言わなかった。
……なんか、さっきの私みたいだ。
言いかけて止まるの、うつったのかな。
でも白石くんが何を言いかけたのか、全然わからなかった。
香水、の後に何が続くんだろう。
前に、というのは、いつのことだろう。
考えたけど、答えは出なかった。
「そろそろ、電気つけようか」
私が言うと、白石くんが「そうだね」と返した。
パチッ。
一気に、部屋が明るくなった。
目が、少しまぶしかった。
白石くんも、一瞬目を細めた。
それから、なんとなく、目が合った。
二人して、少しの間、何も言わなかった。
それから、なぜか、笑えてきた。
何がおかしいわけでもないのに。
白石くんも、ふっと笑った。
なんか、よかった。
さっきまでの、ちょっとおかしな空気が、やわらいだ気がした。
「修業になった?」
私が聞くと、白石くんが少し考えてから、
「……少し、なったかも」
と言った。
「ほんとに?」
「雷、ちょっとびっくりした」
白石くんが、さらっと言った。
思わず笑った。
白石くんも、また少し笑った。
アロマキャンドルの炎が、まだゆらゆらと揺れていた。
ラベンダーの香りが、まだ部屋に漂っていた。
……修業、ちゃんと前進した気がする。
それだけを、ずっと思っていた。
それだけを、考えようとしていた。
……たぶん。
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