第15話:やらないといけない環境
中間テストが終わった。
それはつまり、修業が再開されるということだ。
放課後、部活を終えて教室に戻った。
いつもの席。
いつもの向きに椅子を引いて、白石くんを待った。
……あ、なんか、久しぶりだな。
この感じ。
修業の前の、少しだけ落ち着かない感じ。
待っている間に、ふと気づいた。
やっと修業再開できる、と思っている自分がいた。
……やっと、って思ってた。
なんか、少し、不思議だった。
修業は、白石くんのビビりを克服するためのものだ。
私が楽しみにするものじゃない。
……のに。
廊下から足音が聞こえた。
引き戸が開いた。
白石くんだった。
「お疲れ」
「お疲れ様」
白石くんが自分の席に座った。
椅子を引いて、こちらに向き直した。
いつもの光景だった。
なんか、ほっとした。
ほっとしている自分に、また少し驚いた。
「今日、何やる?」
白石くんが聞いた。
「暗闇系、どうかな」
私が言うと、白石くんが少しだけ間を置いた。
「……暗闇系」
「うん。虫は少し慣れてきたし、ホラー映画もやったし。次は暗闇かなって」
白石くんが、窓の外を見た。
まだ明るかった。
放課後の、傾きかけた光が教室に差し込んでいた。
「暗闇系って、具体的には」
「カーテン閉めて、電気消して、少しの間じっとしてみるとか」
白石くんが、また少しの間、黙った。
「……なるほど」
涼しい顔だった。
でも、机の上で組んでいた指先が、かすかに白くなっていた。
……気づかないふりをした。
「やってみる?」
「まあ、ね」
短く答えた。
いつもの口癖だった。
でも、声のトーンが、いつもより少しだけ低かった気がした。
私は立ち上がって、窓際のカーテンに手をかけた。
カーテンを閉めた。
ざっ、と布が動いて、窓からの光が遮られた。
でも、完全には暗くならなかった。
カーテンの端や隙間から、夕方の光がじわっと漏れ込んでいた。
教室の中は、薄暗い、という感じだった。
真っ暗には、程遠かった。
「電気、消すね」
パチッ。
少しの間、二人で沈黙した。
……ぜんぜん、怖くない。
「……怖くないね」
私が言った。
「……うん」
白石くんも、あっさり言った。
薄暗い教室の中で、二人でぼんやりと顔を見合わせた。
白石くんの表情が、なんか、微妙だった。
怖くなかったことへの、微妙さだった。
「夕方だから、外が明るすぎるね」
「カーテンも、遮光じゃないし」
「……修業、失敗かな」
白石くんが、少しの間、黙った。
「……そう、だね」
素直に認めた。
電気はつけなかった。
なんとなく、このままでいいか、という感じになっていた。
薄暗い教室の中で、二人でぼんやりとしていた。
どうしようか、と少し話した。
でも、特に名案も出なかった。
会話が、なんとなく、雑談に変わっていった。
窓の外の光が、少しずつ橙色になっていた。
夕方が、深くなっていく。
教室の中は、ますます薄暗くなっていた。
チョークの粉と、少し冷えてきた空気の匂いがした。
でも、不思議と、居心地は悪くなかった。
「白石くんって」
なんとなく、口をついて出た。
「いつから学校にこんなに早く来たり、遅くに帰ったりしてるの?」
白石くんが、少しの間、黙った。
「……1年の頃から」
短く、答えた。
「なんで?」
聞いてから、少し後悔した。
踏み込みすぎたかもしれない、と思った。
でも、白石くんは怒らなかった。
窓の方を見たまま、少しの間、また黙っていた。
「家にいるより、学校の方が静かだから」
それだけ言った。
それ以上は、何も言わなかった。
……静か。
その言葉が、薄暗い教室の空気に溶けていった。
「そっか」
私は返した。
それ以上は聞かなかった。
聞けなかった、というか。
「静かだから」という言葉が、なんか、頭の中に残った。
家より学校の方が静か、ってどういうことだろう。
うまく、想像できなかった。
薄暗い教室に、しばらく沈黙が漂った。
白石くんは、カーテンから漏れる光を見ていた。
夕方の光が、横から差し込んでいた。
白石くんの横顔に、そのわずかな光が当たっていた。
なんか、遠い顔をしていた。
いつもの涼しい顔とは、少し違った。
どこか遠くのものを見ているような、そういう表情だった。
……悪いこと、聞いちゃったかな。
少し、申し訳なくなった。
でも、白石くんは特に気にした様子もなく、こちらに視線を戻した。
「修業、続けよう」
涼しい顔で、言った。
「……うん」
私は頷いた。
***
修業を再開した。
改めて今日は、以前もやった虫の写真の見直しと、図鑑による生態の理解を組み合わせたメニューにした。
少し遅い時間だったが、ギリギリ開いていた図書室で図鑑を借りてこられたのだ。
白石くんが、図鑑を開いた。
パラ、パラ、とページをめくる手が少し速かった。
……気分転換したいんだろうな。
私は何も言わずに、図鑑を覗き込んだ。
しばらく、静かに進んでいた。
次のページを開いた瞬間だった。
白石くんの手が、止まった。
「……っ」
声にならない声が出た。
シャープペンが、机の上に転がった。
コロン、と音を立てた。
ページには、大きなゴキブリの写真が載っていた。
私は、笑いをこらえた。
必死にこらえた。
でも、口元が、どうしても動いた。
「……大丈夫?」
「……見えてない」
白石くんが、顔を逸らしたまま言った。
完全に顔を背けていた。
涼しい顔は、完全に消えていた。
「見えてないって、ページ開いたじゃん」
「見えてない」
繰り返した。
声が、少し低かった。
私は、もう笑いをこらえるのを諦めた。
くすっ、と声が出た。
「白石くん、やっぱりすごいね」
「……何が」
「ビビり方が」
白石くんが、微妙な顔をした。
褒めているのか、からかっているのか、わからない、という顔だった。
私は、また笑った。
さっきまでの空気が、少し軽くなった気がした。
***
帰り道、一人で歩きながら、なんとなく今日のことを振り返っていた。
ゴキブリのページで盛大にビビった白石くんのことを思い出して、また少し笑いが込み上げた。
「見えてない」と言いながら完全に顔を背けていたあの横顔が、なんか、愛おしかった。
……愛おしい、って、なんか変な言い方だな。
打ち消した。
でも、それよりも。
「家にいるより、学校の方が静かだから」
その言葉が、まだ頭の中にあった。
静か、か。
家より学校の方が静かって、どういうことだろう。
学校の方が、人が多い。
人が多い方が、静かってことは。
……うまく、想像できなかった。
電車に乗り込んで、端の席に座った。
窓の外を見た。
夜の街が、後ろに流れていく。
白石くんは、なんで変わりたいんだろう。
修業の最初に、「変わりたい」と言っていた。
少し前に、勉強については「やらないといけない環境だったから」と言っていた。
それが関係しているのだろうか。
でも、それが何を意味しているのか、まだわからなかった。
……聞けなかったな。
聞いてもよかったのか、わからなかった。
でも、聞けなかった。
いつか、聞けるといいな。
窓の外の景色が、流れていく。
街灯が、線になって消えていく。
そう思いながら、電車に揺られていた。
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