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憧れのカリスマが怖い人だと思っていたのに、実は私よりビビりだった件  作者: エティルク・ラ・ハオン/Etilk.Ra.Haon
第一章:春の秘密

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12/25

第11話:勉強会、はじめました

 六月が近づいていた。


 中間テストまで、あと二週間強。


 ……やばい。


 美術部の活動を終えて、廊下を歩きながら、頭の中で苦手科目を数えた。


 数学IIと数学B、それから化学。

 理系科目が、軒並みやばい。

 生物は暗記だからまだなんとかなる気がするけど、

 化学と数学は本当に意味がわからない。

 中でも数学が、とりわけやばい。


 昨日の小テストで、自分でも見たくないような点数を取った。

 見なかったことにして引き出しの奥にしまったけど、存在は消えない。


 ……どうしよう。


 教室に向かいながら、スマホを確認した。


  ────────────────

  今日もいるよ。

  ────────────────


 白石くんからだった。

 修業の合図だ。


 今日も修業か。

 でも正直、修業どころじゃない気持ちもある。

 頭の片隅で、数学の問題がちらちらしていた。


 教室の引き戸を開けると、白石くんが自分の席に座っていた。

 参考書を開いていた。


 ……参考書。


 私も参考書を持ってきていた。

 鞄の中に、数学の参考書が入っている。

 修業の道具と一緒に。


「お疲れ様」


「お疲れ様」


 席に着いて、鞄を置いた。

 いつも通り、前の席に椅子を引いて、くるりと向きを変える。


 でも今日は、なんとなく、すぐに修業モードに入れなかった。

 鞄を開けて、修業の道具を出そうとして、手が止まった。


 数学の参考書が、目に入った。


 ……ちょっとだけ、見ようかな。

 修業の前に、ちょっとだけ。


 参考書を取り出して、膝の上に置いた。

 ぱらぱらとめくった。

 昨日の小テストで間違えた範囲を開いた。


 ……うん、やっぱりわからない。


 眉間に皺が寄った。

 睨みつけても、式は答えを教えてくれなかった。

 五月の終わりの教室に、運動部の声が遠く聞こえていた。


「どうかした?」


 白石くんの声がした。

 顔を上げると、白石くんがこちらを見ていた。

 視線が、私の参考書に向いていた。


「数学の参考書。中間テストがちょっと自信なくて」


「見せて」


 さらっと言った。

 有無を言わせない感じで。


 私は参考書を差し出した。

 白石くんが受け取って、ぱらぱらとめくった。

 少しの間、黙って読んでいた。


「教えようか」


 また、さらっと言った。


 ……え。


「いや、でも、修業が」


「修業は後でいいよ」


 白石くんが、参考書を机の上に置いた。

 私の方に向けて。


「修業のお礼、ってことで」


 涼しい顔のまま、そう言った。

 有無を言わせない感じ、というのは、こういうことを言うのだと思う。


 ……お礼。


 確かに、ずっと修業に付き合っている。

 虫の写真から始まって、公園で、教室で、ホラー映画まで。


 でも、白石くんに数学を教えてもらうというのは、なんか、少し、恥ずかしい気がした。

 理由はうまく言えない。

 ただ恥ずかしかった。


 でも――。

 お礼、という厚意を無下にするのも忍びない。

 それに正直なところ、一人でにらめっこしていても、おそらく、ずっと全然わからないままだ。

 誰かに教えてもらった方が、絶対に理解が進む。


「……じゃあ、お言葉に甘えて」


 私は参考書を手元に引き寄せた。

 白石くんが「どこから」と聞いた。

 私が昨日間違えた問題のページを開いた。


 白石くんが、私の参考書を覗き込んだ。


 ……近い。


 いつもの教室での修業の距離と、そんなに変わらないはずなのに。

 なぜか今日は、少しだけ近い気がした。


「これ、どこで詰まってる?」


 白石くんが聞いた。

 私は「この式の変形のところから、もう意味がわからなくて」と答えた。

 白石くんが「なるほど」と短く言って、シャープペンをさっと手に取った。


 白石くんの説明は、わかりやすかった。


 ちょっと腹が立つくらい、わかりやすかった。


 白石くんは何でもできるなぁ。

 この人に弱点なんてあるんだろうか。

 ……あ、怖がりなんだった。

 じゃあ、いっか。


 「まずこの式を、こっちに移項して」と言いながら、ノートに式を書いていく。

 字が、きれいだった。

 数式なのに、きれいだった。

 なんで数式まできれいなんだろう、と思いながら、私はその式を目で追った。


「ここまでは、わかる?」


「……わかる」


「じゃあ、次」


 説明が、一切回り道をしなかった。

 どこで詰まるかを最初からわかっているみたいに、ちょうどいいところで止まって、ちょうどいい言葉で説明してくれる。


 ……なんで、こんなに教えるのがうまいんだろう。


「じゃあ、同じ形の問題、やってみて」


 白石くんが、参考書の別のページを開いた。

 私はシャープペンを持って、式を睨んだ。


 さっきの説明を頭の中でなぞりながら、一行ずつ書いていく。

 移項して、整理して、因数分解して。


 ……あれ、できた気がする。


「できた」


 思わず声に出た。


「見せて」


 白石くんが答案を確認した。

 少しの間、黙っていた。


「……合ってるね」


「本当に?」


「うん」


「やった」


 なんか、すごく嬉しかった。

 白石くんに褒められたから、というわけじゃない。

 問題が解けたから、だ。

 ……たぶん。


 修業は、結局その日できなかった。

 白石くんが「今日はいいよ」と言った。

 なんか、少し、申し訳なかった。

 でも、それより少し、嬉しかった。

 ……なんで嬉しいのかは、よくわからなかった。


    ***


 翌週。


 ホームルームが終わった瞬間、教室の空気がいつもと違った。


 鞄をしまうかわりに、参考書や教科書を取り出す生徒があちこちにいた。

 テスト期間だ。

 部活もない。

 居残って勉強しようという人が、今日は多いらしい。


 私も参考書を取り出しながら、ちらっと斜め前を確認する。

 白石くんは、まだ席にいた。


 ……どうしよう。


 いつもなら、美術部の活動が終わった後に教室へ向かう。

 でも今日は部活がない。

 桜ちゃんが廊下から顔を出してくることも、ない。

 なんか、いつもと勝手が違う。


 それだけじゃなかった。


 教室に居残りしている生徒がいる中で、白石くんと二人でいるのが、なんとなく、急に意識された。

 修業の時は全然気にならなかったのに。

 男女二人、というのが、今日に限って、妙に頭にひっかかった。


 ……よく考えたら。


 白石くんはモテる。

 カリスマで、頭が良くて、運動もでき、顔も良い。

 そういう人と二人でいるところを見られたら、変な憶測が立つかもしれない。

 私はいい。

 でも白石くんに迷惑がかかるのは、困る。


 スマホを取り出した。

 チャットを開いた。


  ────────────────

  教室に居残りする人がいそうだね。

  ……今日、どうしようか

  ────────────────


 送信した。

 少しして、返信が来た。


  ────────────────

  図書館に行ってみようか

  ────────────────


 簡潔だった。

 でも意味はわかった。


 私は先に席を立った。

 白石くんとバラバラに教室を出て、下駄箱で合流した。

 白石くんは涼しい顔をしていた。

 全く気にしていなさそうだった。

 それが、なぜかちょっと、悔しかった。

 ……何が悔しいのかは、よくわからなかった。


    ***


 図書館は、静かだった。


 テスト期間だからか、自習スペースにはすでに何人か座っていた。

 でも、教室よりは広い。

 二人並んで座れる場所が、窓際にあった。

 カウンター席のようになっている。


 白石くんが先に座った。

 私も隣に座った。


 ……近い。


 いつもの教室では、前後の席だった。

 向かい合って座っている時も、机一つ分の距離があった。

 でも今は、横並びだ。


 肩と肩の距離が、なんか、いつもより近い気がした。

 少し動いたら、触れてしまいそうな距離だった。


 触れてはいない。

 でも、なんとなく、体温が伝わってくる気がした。


 気のせいかもしれない。

 でも、気のせいじゃない気もした。


 いや、図書館の自習スペースって、こういうものかもしれない。

 うん、そうだ、そうだ。


 気にしないことにした。

 断じて。


 参考書を開いた。

 白石くんも、自分の参考書を開いた。


「どこから始める?」


 白石くんが、小声で聞いた。

 図書館だから、声が自然と小さくなる。


 それが、なんか、余計に近い気がした。


「えっと、この範囲が一番不安で」


 私も小声で答えながら、参考書のページを指さした。

 白石くんが、覗き込んだ。


 近い。


 ……さっきも思ったけど、近い。


「わかった」


 白石くんが、ノートを取り出した。

 説明が始まった。


 やっぱり、腹が立つくらい、わかりやすかった。


    ***


 二時間ほど経った頃、白石くんが「ここ、違う」と言った。


 小声で。

 私の解答を覗き込みながら。

 耳元で。

 囁くように。


 ビクッ!


 声は出さなかったが、心臓が跳ねた。


 ……近かった。

 さっきより、さらに近かった。

 白石くんの体温が、はっきりとわかった。


 そういえば、私、ちゃんと香水つけてきたっけ。

 紅茶の香りの、あれ。

 つけてきた。

 朝、ちゃんとつけてきた。

 さっきトイレでもつけ直した。

 ……でも、一時間以上経っている。

 残っているかどうか、わからない。


 どうしよう。

 なんで今、そんなことを考えているんだろう。


「……どこが」


「この変形。符号が逆になってる」


 白石くんの指が、私のノートの一行を指した。

 確かに、逆だった。


「あ、ほんとだ」


「よくあるやつ。気をつけて」


 それだけ言って、白石くんは自分のノートに視線を戻した。

 涼しい顔のままだった。

 何事もなかったみたいに。


 私は符号を直しながら、なんとなく、白石くんの横顔を見た。


 ……この人、いつも涼しい顔してるな。


 図書館の窓から、夕方の光が差し込んでいた。

 白石くんの横顔に、その光が当たっていた。

 なんか、絵みたいだな、と思った。


 思ってから、すぐに参考書に視線を戻した。

 今は勉強の時間だ。

 関係ない。


 断じて、関係ない。


    ***


 閉館のアナウンスが流れたのは、それからしばらく後のことだった。


「今日はここまでにしようか」


 白石くんが参考書をパタンと閉じた。

 私も荷物をまとめた。


 図書館を出ると、外はもう薄暗くなっていた。

 五月の終わりの夕空が、淡いオレンジ色をしていた。


「今日もありがとう」


 私が言うと、白石くんが「うん」と短く返した。

 それだけだった。


 帰り道、一人で歩きながら、なんとなく今日のことを振り返った。


 勉強、思ったよりわかった気がする。

 白石くんの教え方が、思ったよりわかりやすかった。

 図書館も、悪くなかった。


 ……でも、なんか今日、いつもと違った気がする。


 白石くんの横顔が、なんとなく頭に残っていた。

 打ち消した。


 うまく言葉にできなかった。

 気のせいだ、断じて。


 ……たぶん。

最後までお読みいただきありがとうございます!

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