第11話:勉強会、はじめました
六月が近づいていた。
中間テストまで、あと二週間強。
……やばい。
美術部の活動を終えて、廊下を歩きながら、頭の中で苦手科目を数えた。
数学IIと数学B、それから化学。
理系科目が、軒並みやばい。
生物は暗記だからまだなんとかなる気がするけど、
化学と数学は本当に意味がわからない。
中でも数学が、とりわけやばい。
昨日の小テストで、自分でも見たくないような点数を取った。
見なかったことにして引き出しの奥にしまったけど、存在は消えない。
……どうしよう。
教室に向かいながら、スマホを確認した。
────────────────
今日もいるよ。
────────────────
白石くんからだった。
修業の合図だ。
今日も修業か。
でも正直、修業どころじゃない気持ちもある。
頭の片隅で、数学の問題がちらちらしていた。
教室の引き戸を開けると、白石くんが自分の席に座っていた。
参考書を開いていた。
……参考書。
私も参考書を持ってきていた。
鞄の中に、数学の参考書が入っている。
修業の道具と一緒に。
「お疲れ様」
「お疲れ様」
席に着いて、鞄を置いた。
いつも通り、前の席に椅子を引いて、くるりと向きを変える。
でも今日は、なんとなく、すぐに修業モードに入れなかった。
鞄を開けて、修業の道具を出そうとして、手が止まった。
数学の参考書が、目に入った。
……ちょっとだけ、見ようかな。
修業の前に、ちょっとだけ。
参考書を取り出して、膝の上に置いた。
ぱらぱらとめくった。
昨日の小テストで間違えた範囲を開いた。
……うん、やっぱりわからない。
眉間に皺が寄った。
睨みつけても、式は答えを教えてくれなかった。
五月の終わりの教室に、運動部の声が遠く聞こえていた。
「どうかした?」
白石くんの声がした。
顔を上げると、白石くんがこちらを見ていた。
視線が、私の参考書に向いていた。
「数学の参考書。中間テストがちょっと自信なくて」
「見せて」
さらっと言った。
有無を言わせない感じで。
私は参考書を差し出した。
白石くんが受け取って、ぱらぱらとめくった。
少しの間、黙って読んでいた。
「教えようか」
また、さらっと言った。
……え。
「いや、でも、修業が」
「修業は後でいいよ」
白石くんが、参考書を机の上に置いた。
私の方に向けて。
「修業のお礼、ってことで」
涼しい顔のまま、そう言った。
有無を言わせない感じ、というのは、こういうことを言うのだと思う。
……お礼。
確かに、ずっと修業に付き合っている。
虫の写真から始まって、公園で、教室で、ホラー映画まで。
でも、白石くんに数学を教えてもらうというのは、なんか、少し、恥ずかしい気がした。
理由はうまく言えない。
ただ恥ずかしかった。
でも――。
お礼、という厚意を無下にするのも忍びない。
それに正直なところ、一人でにらめっこしていても、おそらく、ずっと全然わからないままだ。
誰かに教えてもらった方が、絶対に理解が進む。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
私は参考書を手元に引き寄せた。
白石くんが「どこから」と聞いた。
私が昨日間違えた問題のページを開いた。
白石くんが、私の参考書を覗き込んだ。
……近い。
いつもの教室での修業の距離と、そんなに変わらないはずなのに。
なぜか今日は、少しだけ近い気がした。
「これ、どこで詰まってる?」
白石くんが聞いた。
私は「この式の変形のところから、もう意味がわからなくて」と答えた。
白石くんが「なるほど」と短く言って、シャープペンをさっと手に取った。
白石くんの説明は、わかりやすかった。
ちょっと腹が立つくらい、わかりやすかった。
白石くんは何でもできるなぁ。
この人に弱点なんてあるんだろうか。
……あ、怖がりなんだった。
じゃあ、いっか。
「まずこの式を、こっちに移項して」と言いながら、ノートに式を書いていく。
字が、きれいだった。
数式なのに、きれいだった。
なんで数式まできれいなんだろう、と思いながら、私はその式を目で追った。
「ここまでは、わかる?」
「……わかる」
「じゃあ、次」
説明が、一切回り道をしなかった。
どこで詰まるかを最初からわかっているみたいに、ちょうどいいところで止まって、ちょうどいい言葉で説明してくれる。
……なんで、こんなに教えるのがうまいんだろう。
「じゃあ、同じ形の問題、やってみて」
白石くんが、参考書の別のページを開いた。
私はシャープペンを持って、式を睨んだ。
さっきの説明を頭の中でなぞりながら、一行ずつ書いていく。
移項して、整理して、因数分解して。
……あれ、できた気がする。
「できた」
思わず声に出た。
「見せて」
白石くんが答案を確認した。
少しの間、黙っていた。
「……合ってるね」
「本当に?」
「うん」
「やった」
なんか、すごく嬉しかった。
白石くんに褒められたから、というわけじゃない。
問題が解けたから、だ。
……たぶん。
修業は、結局その日できなかった。
白石くんが「今日はいいよ」と言った。
なんか、少し、申し訳なかった。
でも、それより少し、嬉しかった。
……なんで嬉しいのかは、よくわからなかった。
***
翌週。
ホームルームが終わった瞬間、教室の空気がいつもと違った。
鞄をしまうかわりに、参考書や教科書を取り出す生徒があちこちにいた。
テスト期間だ。
部活もない。
居残って勉強しようという人が、今日は多いらしい。
私も参考書を取り出しながら、ちらっと斜め前を確認する。
白石くんは、まだ席にいた。
……どうしよう。
いつもなら、美術部の活動が終わった後に教室へ向かう。
でも今日は部活がない。
桜ちゃんが廊下から顔を出してくることも、ない。
なんか、いつもと勝手が違う。
それだけじゃなかった。
教室に居残りしている生徒がいる中で、白石くんと二人でいるのが、なんとなく、急に意識された。
修業の時は全然気にならなかったのに。
男女二人、というのが、今日に限って、妙に頭にひっかかった。
……よく考えたら。
白石くんはモテる。
カリスマで、頭が良くて、運動もでき、顔も良い。
そういう人と二人でいるところを見られたら、変な憶測が立つかもしれない。
私はいい。
でも白石くんに迷惑がかかるのは、困る。
スマホを取り出した。
チャットを開いた。
────────────────
教室に居残りする人がいそうだね。
……今日、どうしようか
────────────────
送信した。
少しして、返信が来た。
────────────────
図書館に行ってみようか
────────────────
簡潔だった。
でも意味はわかった。
私は先に席を立った。
白石くんとバラバラに教室を出て、下駄箱で合流した。
白石くんは涼しい顔をしていた。
全く気にしていなさそうだった。
それが、なぜかちょっと、悔しかった。
……何が悔しいのかは、よくわからなかった。
***
図書館は、静かだった。
テスト期間だからか、自習スペースにはすでに何人か座っていた。
でも、教室よりは広い。
二人並んで座れる場所が、窓際にあった。
カウンター席のようになっている。
白石くんが先に座った。
私も隣に座った。
……近い。
いつもの教室では、前後の席だった。
向かい合って座っている時も、机一つ分の距離があった。
でも今は、横並びだ。
肩と肩の距離が、なんか、いつもより近い気がした。
少し動いたら、触れてしまいそうな距離だった。
触れてはいない。
でも、なんとなく、体温が伝わってくる気がした。
気のせいかもしれない。
でも、気のせいじゃない気もした。
いや、図書館の自習スペースって、こういうものかもしれない。
うん、そうだ、そうだ。
気にしないことにした。
断じて。
参考書を開いた。
白石くんも、自分の参考書を開いた。
「どこから始める?」
白石くんが、小声で聞いた。
図書館だから、声が自然と小さくなる。
それが、なんか、余計に近い気がした。
「えっと、この範囲が一番不安で」
私も小声で答えながら、参考書のページを指さした。
白石くんが、覗き込んだ。
近い。
……さっきも思ったけど、近い。
「わかった」
白石くんが、ノートを取り出した。
説明が始まった。
やっぱり、腹が立つくらい、わかりやすかった。
***
二時間ほど経った頃、白石くんが「ここ、違う」と言った。
小声で。
私の解答を覗き込みながら。
耳元で。
囁くように。
ビクッ!
声は出さなかったが、心臓が跳ねた。
……近かった。
さっきより、さらに近かった。
白石くんの体温が、はっきりとわかった。
そういえば、私、ちゃんと香水つけてきたっけ。
紅茶の香りの、あれ。
つけてきた。
朝、ちゃんとつけてきた。
さっきトイレでもつけ直した。
……でも、一時間以上経っている。
残っているかどうか、わからない。
どうしよう。
なんで今、そんなことを考えているんだろう。
「……どこが」
「この変形。符号が逆になってる」
白石くんの指が、私のノートの一行を指した。
確かに、逆だった。
「あ、ほんとだ」
「よくあるやつ。気をつけて」
それだけ言って、白石くんは自分のノートに視線を戻した。
涼しい顔のままだった。
何事もなかったみたいに。
私は符号を直しながら、なんとなく、白石くんの横顔を見た。
……この人、いつも涼しい顔してるな。
図書館の窓から、夕方の光が差し込んでいた。
白石くんの横顔に、その光が当たっていた。
なんか、絵みたいだな、と思った。
思ってから、すぐに参考書に視線を戻した。
今は勉強の時間だ。
関係ない。
断じて、関係ない。
***
閉館のアナウンスが流れたのは、それからしばらく後のことだった。
「今日はここまでにしようか」
白石くんが参考書をパタンと閉じた。
私も荷物をまとめた。
図書館を出ると、外はもう薄暗くなっていた。
五月の終わりの夕空が、淡いオレンジ色をしていた。
「今日もありがとう」
私が言うと、白石くんが「うん」と短く返した。
それだけだった。
帰り道、一人で歩きながら、なんとなく今日のことを振り返った。
勉強、思ったよりわかった気がする。
白石くんの教え方が、思ったよりわかりやすかった。
図書館も、悪くなかった。
……でも、なんか今日、いつもと違った気がする。
白石くんの横顔が、なんとなく頭に残っていた。
打ち消した。
うまく言葉にできなかった。
気のせいだ、断じて。
……たぶん。
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