のぞきみ(前編)
これは、リスタが洋館の宿屋『フェルノ』に訪れる数分前の話である。
洋館の一室。本棚とソファと蓄音機とベルベットの黒いカーテンが並ぶ懐古調の品で統一された部屋に、執務机の上にあごを乗せて座るオーナーの姿があった。
「…………暇だ」
ひどく無気力な格好のまま放った第一声がそれだった。
ここ半年、館には一人も客が来ていない。それは宿屋として極めて致命的だ。財政面に関してはどうでもいいが、客が来ない店というのはそれだけで存在価値を問われる案件である。
故に、財政難に困っているわけではなかったが、『フェルノ』は窮地に立たされていた。
「施設も娯楽もサービスも充実してるのに、なぜ客が来ない」
机から体を離してオーナーが嘆く。
創業してから三百年。一度たりともこの命題に対する答えが出たためしはなかった。彼にはまったくもって原因が分からない。
ごくまれに客が来てくれたことは何度もあったが、そのたびに、心を込めたおもてなしをしているにも関わらず、なぜかここに泊まった客は逃げるように去ってしまう。一夜を過ごしきれた客などそれこそ片手で足りる。三百年営業してるのに……。
いったい何がいけないのか。三百年試行錯誤を繰り返してはいるがやはり分からない。
このままではオーナーの悲願は一生果たされないであろう。
「……営業方針を見直すか」
もう何十何百と繰り返したセリフを吐いてオーナーが顔を上げる……と、
――コン、コン、コン。
部屋のドアを慌ただしくノックする音が聞こえてきた。
「どうぞ」
「失礼します!」
オーナーが入室を許可すると銀髪褐色の青年執事が現れた。雰囲気から何やら急いている様子だ。
「やあ、ジェント君。どうかしたの?」
「オーナー、ヤバいです! 一大事です! 緊急事態です!」
「うん。だからどうしたの?」
パニックになって取り乱す執事をなだめて再度尋ねる。この青年、普段は有能で熱意もあり、執事長として接客係のリーダー役を任せているのだが、不測の事態が起こると判断力が著しく低下してバカになるという欠点があった。
「どうしましょう、もうすぐそこまで来ています! どのように準備すれば……!」
「だから何が!?」
辛抱たまらずオーナーが机を叩いて立ち上がるとジェントが叫んだ。
「お客様がお見えになりました!」
その一言で今度はオーナーが発狂した。
◆◆◆
「どうこれ? ちゃんと笑えてる?」
リスタが来るおよそ三分前。オーナーたちの姿はエントランス横の廊下にあった。
彼が最大限の接客スマイルを向ける先には二人の部下がいる。一人は先ほどオーナーとともに狂喜乱舞していた青年ジェント。
もう一人はそのジェントの直属の部下にあたる少女、フラウ。ロングスカートのメイド服にブーツを身に着け、金色の長髪は頭の左右で結んでいる。彼女の一番の特徴は長く尖った両耳であるが、接客の際は幻術で誤魔化しているため、人目には普通の人間にしか見えない。
さらに言えば接客時の彼女は澄ました顔をして淑女ぶるが、普段はジェントに負けず劣らず熱意のあるバカだ。
ジェントとフラウは胸の前で拳をつくり、オーナーの問いかけに力強く頷いた。
「何の問題もありません! 芸術的笑顔です! 型取りして手元に残したいぐらいお見事です!」
「さすがオーナー、心なしか後光が見えます!」
二人の賛辞を聞き安心したか、オーナーは一層笑みを強める。
「それはよかった。では行ってくる」
「「ご武運を!」」
部下二人に敬礼で見送られ、オーナーはちょうど扉を開けて入ってきた一人の少女の元へと向かう。
ジェントとフラウは物陰に隠れてオーナー直々の接客を見学することにした。
「見ろ、あの流麗な所作を」
「歩いているだけなのに一切の無駄も隙もありません」
「そうだ。接客係は暗殺者にも劣らない迅速かつ落ち着いた挙動を要求される。熟練者ともなれば気配と足音を消して黒子に徹することも可能だ」
「なるほど。精進します」
ジェントはオーナーから学んだ接客(?)技術を部下に教え込む。
そうこうしているうちにオーナーは客であるリスタに声をかけ、話を進めていく。
「お客様、終始驚きっぱなしですね」
「無理もない。オーナーの完璧すぎる対応の前には貴族の令嬢すらときめく」
「私もオーナーに接客されてみたいです!」
「五百年早い! 俺ですらされたことないのに!」
部下二人が会話を脱線させている間にオーナーはリスタの宿泊同意までこぎつけ、さっそく部屋へと案内する。
「あ、オーナーとお客様が客室に行きました」
「俺たちも行くぞ」
「はい!」
「それでは、当宿をお楽しみください」
二人の部下が追いつく頃にはすべてが終息していた。
オーナーはリスタに客室の鍵とベルを渡して、元来た廊下を引き返すところであった。
「早いですね、オーナー」
「お客様の反応はどうでしたか?」
「上々だ。我ながらうまくできたと思う」
おぉー、と二人の部下が小さく拍手を送る。
「この調子なら今度こそうまくいきそうですね!」
「ジェント君、油断は禁物だ。いつもいつも最初は好反応だが、終盤に進むころにはお客様が怯え逃げ出す……何度も繰り返してきた失敗だ」
「も、申し訳ありません、失念しておりました」
「今回こそは何としてでも成功させてみせる。サービスのいい宿屋とお客様に触れ込んでもらえさえすれば客足は必ず伸びるはずだ」
「なるほど、だからオーナー直々に接客を……!」
オーナーの真意を知り、ジェントは感銘を受ける。
直後、三人の背後でお客様の宿泊室のドアが勢いよく閉まる音がした。フラウが手を叩く。
「あ、オートロックが作動しましたね」
「正直なところうちは防犯しなくても問題ないんだが、お客様を安心させるという面では重要だからね。やっぱり指示しといてよかった」
己の間違いでなかったとオーナーはご満悦の様子で頷く。
それから三人は縦一列にそっと廊下の角から客室のある廊下を覗き見た。
「お客様、びっくりしてます」
「最新機能だからね。驚くのも当然だろう」
「でも、あのまま驚かせたままというのもそれはそれで逆に不安にさせるのでは?」
「フラウ君、たまにはいいこと言うね。よし、せっかくだし食事を有無を訊きに行こう」
そう言うとオーナーはなぜか反対方向から逆回りして走る。
残されたフラウがジェントに質問した。
「どうしてオーナーはわざわざ遠回りを?」
「なんだ分からないのか? オートロックが作動した直後に戻ったはずの廊下から現れでもしたらイタズラと勘違いされるだろ」
「つまり、うちの機能性をアピールするためにあえて……!」
ジェントからオーナーの行動の意味を聞かされフラウは瞠目する。
「……あの、もしかしてさっきドアを閉めたのって、オーナーですか?」
「ドア? いったい何のことでしょう?」
客室側の廊下からリスタとオーナーの会話が聞こえて部下二人は視線を戻す。
「一切事情を悟らせないお見事な演技ですね」
「当然だ。オーナーに不可能はない」
ひそひそと小声で話すジェントとフラウ。そんな二人をよそにオーナーはリスタを夕食に招待することに成功し、その足でレストランへと向かう。
「レストランか。もしかしたらいよいよ俺たちの出番かもしれない」
「急ぎましょう、リーダー!」
青年と少女は抜き足差し足でオーナーのあとをつけた。
二人の部下は厨房からレストランの様子をうかがっていた。窓際のテーブルには着席したお客様とそのすぐ横にオーナーがいる。
「オーナーは付きっきりで身動きが取れない。ここからの給仕は俺たちの役目だ」
「緊張しますね」
厨房から屈んで覗き見つつ二人は決意を固める。はたから見ればおかしな連中だ。するとそのそばから、
「おい、接客担当。スープできたぞ」
通り過ぎ様に口調の荒い女シェフがジェントの頭の上にスープの皿を乗せる。落とすことのない絶妙なバランス感覚だ。
「ついにこの時がきたか」
「頑張ってください!」
ジェントは皿をトレイに乗せ替えて立ち上がり、背筋を伸ばして客席に赴いた。
そのあとは滞りなく進行していき、ついにリスタは食事を済ませる。
「無事にお客様の食事が終わりましたね」
「ああ、このまま何事もなければ万々歳なんだが――」
「ぜひシェフにもお礼を言いたいんですが、会うことはできますか?」
ジェントとフラウが安堵しかけた瞬間、客席側からリスタのそんな要望が聞こえて二人の部下は凍り付いた。
「シェフってまさか……リカーレット様のことですか?」
「ほかにシェフなんてうちにいないだろ」
「ダメですよ! あの人目つきも口調も悪いんですから、絶対悪評が立ちます!」
「安心しろ。あのシェフはどうせ面倒くさがって客に会うことはない」
「なるほど、それもそうですね」
などと二人でひそひそシェフをこき下ろしていれば――並ぶ二人の間目がけて包丁が飛んできた。
「聞こえてるぞ、そこの二人」
恐ろしく殺気立った声を背中に受けつつ、ジェントとフラウはそばの壁に突き刺さった刃物を見て顔を青くする。
その後オーナーがやんわりと面会を断ったことで小さな危機は脱したが、厨房ではジェントとフラウが別の危険に見舞われていたのであった。
厨房にやってきたオーナーが顔面蒼白の二人を見て首を傾げる。
「何かあったの?」
「いえ、陰口はするものではないと反省しておりました……」
「なるほど。おおよそ察した」
正座する部下二人と厨房の奥で背を向けて作業している女シェフを見比べて、オーナーは得心がいったと頷いた。
「さて、反省はそのくらいにして仕事に戻ろうか二人とも。フラウ君、ついにきみの出番だ」
「本当ですか!?」
オーナーの一言で肩を落としていたフラウが顔を上げて目を輝かせる。
「お客様が大浴場に行きたいとおっしゃっている。きみにはその道案内を頼みたい」
「任せてください! 不肖このフラウ、全力で参ります!」
「……迷うなよ?」
意気込み良く胸に手を当てるフラウの横で、ジェントは不安そうな顔をしていた。