第七十一章~清洲会議・下~
桶狭間の合戦から約一年以上経過した、そして今川の先鋒として戦った宿敵・松平との重要な同盟が結ばれようとしている。
五郎はその会見に参加している事、それ以上に初めての合戦から既に一年経ったのかと感慨深くなる。
気づけば自分も30歳を迎えた、まさかその誕生日が清洲同盟が結ばれる今日になるとは思わなかったが。
「忘れられない誕生日になったな……」
誰にも聞こえないよう小さく呟く、実は会見前に少しだけ時間を貰って長秀の墓前に報告をしてきていた。
特に目立った活躍はしていないと思う、だがそれなりに信長に与えられる役目を必死にこなしているし、何より自分が矢面に立つことで揚羽の負担も減らせたと勝手に思っている。
「……すっかり、家は揚羽に任せてるけど」
最近は『揚羽』と呼んでも怒られなくなった、大分家族らしくなったと思う。
夫婦というよりはだらしない兄の面倒を看る妹に見えるかもしれないが。
この同盟が無事結ばれるならば、今川からの反撃に気を取られなくていいと聞いているし、信長の美濃攻略の準備も暫く掛かるだろう。
その間に家を開けていた分の手伝いや労いをすることにしよう。
「丹羽様、丹羽様……」
考える事に耽っていた五郎を声を潜めて呼んだのは藤吉郎だった。
藤吉郎は信長の話した通りに五郎の隣で会見を見守っていたのだ。
暫く考えに集中していた五郎を気づかぬ振りをしていたのだが、流石にこれ以上は他の家臣に気づかれると思って声を掛けたのであった。
「なんだい?」
「今日は皆気が立っています、あんまり呆けていると目立ちますよ」
「ごめんごめん、ちょっと色々と考えてたんだ」
「信長様が今川軍を追い返して一年ですからね、これで常々仰っていた美濃に着手出来るでしょう」
「美濃、美濃か……どんな所なんだろう」
「行った事がないんで?」
「うん」
「……後で俺が知る限りの話で良ければお教えしますよ」
「ありがとう、頼もうかな」
二人は信長の視線が此方を見た気がして、話を切り上げると何食わぬ顔で背筋を伸ばして視線を向ける。
ただ、藤吉郎と違って表情を隠すのが下手な五郎は顔に焦りが出てバレバレだったが。
改めて元康と信長の会話に集中する、二人は同盟を結ぶにあたっての取り決めを腹を探りながら話し合っている。
驚いたのは会見前は織田家の家臣に怯え、信長が現われてからは喜ぶ、そんな一喜一憂していた元康。
その元康が信長と交渉を始めた途端に表情をごろりと変えた事だ、お互いの譲れない箇所を如何に認めさせるか話す姿は貫禄がある。
「あれが、『松平元康』か……凄いな」
「信長様の恫喝に近い要求も突っぱねてますね、返しも鋭い」
「康政殿が何も言わずにジッとしている訳だ」
「……腹黒い狸ですよ、敵に回すのは面倒だと思いますぜ」
「藤吉郎、それ誰にも言っちゃ駄目だよ」
「分かってます」
藤吉郎を軽く諌めながら、五郎は再び会話に集中する。
どうやらお互いの要求は出し尽くしたようだ、後は譲歩出来る部分と出来ない部分の折り合いをつけるだけだろう。
聞いている限り、信長も無理難題な要求はしていない……少し意外だったが。
五郎はまだまだ情勢に疎いのだが、平手政秀を始めとする名だたる重臣達に聞いた話によれば今川義元を失って未だに動揺を抑えきれない今川家は武田家との関係も綻びが出ているらしい。
元々、甲斐・相模・駿府の三国で同盟を結んでいたお陰で今川は三河、そして尾張へと侵攻していたのだと聞く。
しかし桶狭間で弱体化した今川の影響は大きく、武田家と北条家に敵対する勢力を勢いづかせる事になったのだ。
特に越後の長尾景虎は北条家当主・北条氏康を討つ為に越後から出陣して次々と諸城を攻略している、その結果武田家も動きを見せているようだ。
「うーん、武田と北条か……」
「気になるんですか?」
「いや、この同盟が結んだとして美濃を目指すんでしょ?」
「恐らくは、そうなると思いますぜ」
「美濃と信濃って隣だよね?」
「ええ、ですが、信濃を越後の長尾景虎に侵攻を受けていると聞いてます、恐らく美濃に手を出せないと思いますぜ」
「なるほど」
つまり長尾景虎の北条討伐を防ぎ、更に信濃への侵攻を防ぐのに手一杯になる可能性があるという事だろうか。
武田、北条が今川に対して援軍を送る余裕が無いとすれば同盟締結後の松平にとって大きなチャンスになるだろう。
そして織田にとっても美濃に集中できる。
「問題……無さそうだね」
「ええ」
二人の表情から険しさは既に無い、何やら書状に信長が書き認めると元康に差し出す。
それを受け取った元康は軽く一礼すると見守る織田家臣へ向いて口を開いた。
「今日、この場にお集まり頂き感謝する、信長殿の認めたこの書状を同盟の証として持ち帰らせて頂く。この同盟が我が松平家、織田家の繁栄になる重大な転機になると信じてこれから共に頑張りましょう」
元康の言葉に各々が声を上げる、お互い様々なしがらみを持ちながらの同盟締結に場の空気が明るくなる。
勿論、この同盟が絶対的な保障になるとは限らないが、両家にとってのメリットが無くならない限り安心してもいいだろう。
一仕事終えた顔を一瞬見せた元康はちらっと五郎を見たがその場からゆっくりと康政を携えて去って行った。
「五郎、来い」
熱気を帯びた雰囲気に場が包まれている中、五郎は信長に呼ばれる。
「どうしたんです?」
「全く、もっと集中して聞いておかんか!これも鍛錬だぞ」
「げっ……気づいてたんですか」
「当たり前だ、それよりお前は元康を労いに行け」
「……いいんですか?」
「あの小狸も成長したようだ、俺の脅しも平気で返してきおった」
嬉しそうに笑った信長は、五郎をさっさと追い出すとこれからどう動くか考えに耽るのであった。
「ここかな……丹羽です、松平様は居られますか?」
五郎が尋ねると、部屋の中から『どうぞ中へ』と返事が返ってくる。
戸を開けて一歩踏み入れた五郎の目に映ったのは、康政の横でぐったりしている元康の姿だった。
「だ、大丈夫?」
「流石に疲れたみたいだね、暫く休ませてあげてくれないかな」
「それは全然構わないんですが……」
「お疲れ様、五郎」
「康政殿こそ……お疲れ様です」
「無事同盟が結べて良かったよ」
「そうですね、信長様が何か無茶を言うかと思ったんですが」
「いや~、あの御方は凄いね」
「それに対抗する元康様も凄かったかと」
お互いの主君を持ち上げた二人は顔を見合わせる。
可笑しくなった二人は笑うと、のんびりと元康を見ながら話を続ける。
「康政殿、今日は俺の屋敷に来ませんか?」
「……いいのかい?」
「ええ、誘おうと思ってたので」
「それじゃ、お言葉に甘えるかな……けど、その前に」
「何か問題が?」
「同盟も無事結んだ事だし、そろそろ康政『殿』ってのは止めにしよう」
「う、う~ん……」
「此方も『五郎』って呼んでいるんだ、友として『康政』と呼んで欲しいなぁ~」
「………………分かりました」
「そんなに悩む事かな?」
「俺にとっては、悩む事なんです!」
「あはは、本当に変な男だね~五郎は」
「康政も十分変ですよ!」
笑う康政に五郎は声を上げると、今晩は楽しくなりそうだと思った。
確かに呼び捨てし合う事でなんとなく前より親しくなった気持ちになる。
これで対面的に敵対する者同士では無くなったのだ、気軽に康政と交流する事が増えるかもしれない。
まずは岡崎に帰る前に、この清洲を是非堪能して帰って貰える様に五郎なりに持て成すとしよう。
「今日は、一緒に酒でも飲みながら色々話しましょう」
「そうだね、折角だから付き合うよ」
「楽しみだ!帰ったら揚羽に伝えないと」
五郎は早く家に帰りたい気持ちを抑えながら、康政と共に元康が元気になるまで話し続けるのであった。




