第五十六章~逃走、捕獲~
「ぬわあああああああ!」
五郎は森の中を全速力で駆けていた。
「最近……!なんで……!走ってばっかりなんだよおおおお!!」
どうして追われてばかりなのか、五郎は追跡者から必死に逃げていた。
折角美味しい食事を終えて満足していた矢先である、ちょっと用を足しに茂みの奥に行っただけなのにこんな目に遭うなんて。
そもそも五郎が一人になった時に限ってトラブルが舞い込むのは神様の嫌がらせなのだろうか、偶には幸せな出来事を味わいたいものである。
「ハッ!そうか……奴は所詮真っ直ぐ走るしか出来ない獣よ!何処かで横に避ければ……!」
このままじゃ先に自分の体力が尽きる事は分かりきっている事だ、しかし奴の特性を利用すればこの状況を打破出来るかもしれない。
五郎は走りながら丁度いい横道が無いか探す、下手な所に飛び込んだら転げ落ちる可能性もある。
自分には崖を飛び降りてピンピンするような能力は持ち合わせていない、そんな事が出来そうな人は織田家に沢山居たが……。
「なるべく大丈夫そうな場所に……」
それにしても何故自分にだけ執拗に追いかけてくるのか、特に狙われるような物は持っていないはずなのだが。
せめて長可に伝える事が出来ればこんなに逃げなくても良かったはずなのだが、握飯を食って満足したのか長可は鼾を掻いて寝始めたのである。
寝ている長可を見ながら腹を落ち着かせようとしていたら、便意を催したのであった。
「後で怒られるんだろうなぁ」
勝手に離れない様に念を押したばかりなのにこの体たらくである。
帰りもずっと弄られるんだろうなと思うと頭が痛くなってくる。
危機を乗り越えた先に待ち受ける苦行とはなんと悲しい事か。
「おっ!あそこは丁度障害物も多いし、特に危険なものはなさそうだ」
後ろを確認するとじりじりと追いついてきている、これ以上は猶予も無いだろう。
五郎は意を決して少し速度を落としぎりぎりまで引き付けると、背中を突かれる前に横っ飛びして突進を避けた。
「やった!ふふふ、流石に急に曲がった俺を追いかける知能は無かったようだな!」
歓喜しながらガッツポーズをすると、飛び込んだ茂みからそっと駆けて来た道を窺う。
「居ないな、後は来た道を……」
つんつん、つんつん
「ちょっと、今確認してるんだから待って」
つんつん
「だから、今は安全確認を……」
つんつんつんつんつんつん
「……しつこいな!誰だよ!」
「ブギャ」
「っ!?」
しつこく突いてくる何かに声を上げて振り向くと、そこには撒いたはずの巨大な猪が鼻息を荒くして牙で五郎を突いてくる。
全身から汗が吹き出て、身体が硬直した五郎は頭が真っ白になって何も考えられなくなる。
「あばばばば」
「ブギー!」
「お、怒ってらっしゃる?」
「フシュー」
大分興奮しているのか目も血走っている、何度も突いてくるのは攻撃するぞと表しているのかもしれない。
とにかくこんな図体の猪に突撃されたら軽く弾き飛ばされるに決まっている。
なんとか距離を取って逆方向に逃げれれば……。
「…………ごくり」
「ブギュ」
段々五郎を突く頻度が増えている、そろそろ考える時間も無さそうだ。
こんな大きさの猪に立ち向かうには五郎の小太刀では頼りない。
かと言って他に方法があるかと聞かれれば『ない』と答えるしかないのだ。
一瞬でも怯ませる事が出来れば、その隙に走って逃げる事も出来そうだが。
「一か八かだ……」
五郎は腰に下げていた水筒をそっと手に持つと、タイミングを見計らって放り投げる。
「ブ!?」
水筒に気を取られ、更に木々にぶつかった音に驚いている間に五郎は茂みから飛び出すと、追ってきているのか確認する余裕も無く全開で走り出す。
「ちくしょー!まだ沢山入ってる水が……」
命には代えられないが、まだ二口ほどしか口にしていない貴重な水だ。
叫び過ぎて喉がガラガラである、せめて飲む猶予が欲しかった。
しかし、あれ程の猪がこの世界に存在していると思うと熊に出会ったらどうなるのか。
分かってはいたが、この世界は思った以上に五郎が暮らすには逞しくないといけないのかもしれない。
「体力だけは結構鍛えられたけど、まだまだ武器の扱いだけは怒られてばっかりだしなぁ」
せめて得物の扱いが上手くなれば、仕留めるまではいかなくても追い払う事くらい出来たかもしれない。
五郎が走りながらああでもないこうでもないと考えていると、後ろからドドド!と足音が小さく聞こえてくる気がする。
「やっぱり?追いかけてくるよね、うん」
後ろをチラッと見ると土煙を上げて駆けてくる猪の姿がバッチリ見えた。
どうやら五郎の行動が気に障ったらしく、先程より突進の勢いが激しい。
「これ、追いつかれたら死ぬだろ!」
五郎は嫌な想像を跳ね除けると、追いつかれるものかと必死に足を動かす。
これまで地獄のような基礎鍛錬を受けてきたのだ、まだまだへたっている場合ではない。
信長や揚羽に追いかけられた時を思い出せ、彼等に比べればこんな猪程度可愛いものではないか。
油断すると鋭利な刃の遠距離攻撃が飛んでくるのだ、そんな鬼の様な人達に比べたらただ突進してくるだけの可愛い獣ではないか。
己を鼓舞しながらただ真っ直ぐ走り続けると、見覚えのある風景が見えてきた。
「やった!長可に伝えなきゃ!」
段々と鳴き声と地鳴りのような音が近づいているのだ、心臓は破裂しそうな程鼓動している。
これ以上は気持ちはもっても五郎の身体が先に力尽きてしまう、そうなったら猪に弾かれてお星様になるだけだ。
「長可!長可ー!!」
叫びながら飛び込むと、目を擦りながら身体を伸ばす長可が嫌そうに顔を歪めて五郎に文句を言った。
「五月蝿いなぁ!気持ちよく寝てたのに!」
「それ所じゃないんだよ!猪だよ猪!」
「猪?」
「でっかい猪が俺を追いかけて来るんだよ!」
「どうせ小さいんだろぉ?大物じゃないなら倒して来いよぉ」
「いやいやいや!あんなデカイ猪を俺が仕留めれるわけない!!」
五郎の言葉に疑わしげだった長可は、『デカイ』の一言に目を輝かせると尋ねてくる。
「何!デカイの!」
「…………(こくこくこく)」
「どれくらい!?」
「え、え~っと俺の頭くらいは……」
「やったぜ!今日はご馳走じゃん!」
「え”っ!」
長可は嬉しそうに肩を回すと、五郎に何処にいるのか尋ねてくる。
五郎は本気なのかと思いながら自分の後方を指差すと、その瞬間に茂みから巨体が飛び出して来た。
「……(ぱくぱく)」
五郎が指をさした状態で口を閉口して声を発せないでいると、猪と目が合う。
猪に睨まれて動けない五郎は、じりじりと長可に近寄ると震える口を開く。
「に、逃げよう……長可」
「美味しそうな猪じゃないか、持って帰ろうぜ!」
「本気なのか!?」
「これ位の猪でビビッてたら戦場で手柄なんて上げられないぜ?」
「人間とはまた違うと思うんだが……」
「大丈夫大丈夫、この位の大きさなら槍を使うまでもないぜ!」
「そんな無茶……なっ!?」
興奮する猪に堂々と近づくと、猪が目の前に現れた長可に牙を向けて突撃してきた。
しかし長可はその牙をがしっと掴むと、『おりゃ!』と気合を込めて声を放つと牙を掴んだ状態で猪を持ち上げる。
「おいおい……漫画やアニメじゃないんだよな?」
五郎は長可が暴れる巨大な猪を悠々と持ち上げて楽しそうにしている姿を目にして戦慄する。
会った当初から凄い力だなと思っていたが、まさか軽々とこんな猪を持ち上げるなんて……。
「末恐ろしい子供だ……長可」
五郎が引き攣った口をひくひくさせていると、長可はそのまま猪を地面に叩きつけて気絶させる。
物凄い音と土煙を上げると猪はピクリともせずに倒れている。
長可は持ってきていた縄で縛ると、自慢の槍に括り付けて五郎に笑いながら告げた。
「帰ろうぜ!」
「……それ、本当に持って帰るの?」
「折角捕まえたのに、持って帰らなくてどうするんだよ~」
「で、でも殺してないよね?暴れるんじゃ?」
「縛ってるし大丈夫だぜ、それに暴れだしたら殴って気絶させればいいじゃないか」
あっけらかんと答える長可に頭を抱えると、五郎は何を言っても無駄な気がして長可に従う事にした。
それから幾度も帰り道で暴れだした猪だが、その度に長可の容赦ない一撃で気絶させられていた。
「む、惨い……」
襲われた五郎が言うのも妙な話だが、長可の仕打ちを見ていると猪が可哀想になってしまう。
「俺は食べられそうにないなぁ、こんな光景見せられたら」
大きく溜息を付きながら猪を引き摺る長可の後をとぼとぼ付いて行く。
赤く染まった夕暮れの道を暫く歩き続けて屋敷が見えてくる、五郎は急に疲れを感じると、『今日は帰る元気が無いなぁ』と肩を落として屋敷に入った。




