第四十章~二人きりの勉強会~
手詰まりだ……!これ以上俺に打つ手が……ないっ!
五郎は拳をギュッと握るとやり場の無い悔しさで身体が爆発しそうだ。
「俺は……俺はこんな所で!」
ダン!と畳みに拳を叩きつけると五郎は傷ついた拳を何度も何度も叩きつけた。
こんな所で俺は終わってしまうのか?そんな無力感に苛まれ、その顔からは生気が消えかけている。それ程まで自分は追い詰められているのだ……この状況に。
――五郎が脳内で一人芝居を演じて絶望していると、揚羽は溜息をつく。
揚羽が頑なに五郎につれない態度をとり続けると、五郎は情けない顔をした後、手で顔を覆ってどうしようとぶつぶつ呟いているのだ。
揚羽は迷った末に五郎へ声をかけようと……。
「これから濃姫様と私が回ります、何か聞きたい事があれば遠慮せず言ってください」
政秀の声に遮られると揚羽は五郎へ声をかけ辛くなった、もう一度声をかけようとする勇気が無い揚羽は肩を落としてそっと息を吐いた。
「揚羽殿、貴女は濃姫様に色々とお聞きなさい」
「私が……ですか?」
「えぇ、貴女はまだこの集いに参加して間もないのです、じっくり助言を頂いたほうが良いと思います」
「……わかりました」
政秀はまだ慣れていない揚羽を心配しているのだろう、それぞれがお互いに相談している中で萎縮している揚羽にとってその申し出はありがたい事であった。
ただ、自分の隣で沈んでいる五郎を放っておく事が気がかりである。
そんな心中を察したのか、政秀は皆の様子を目で確認すると五郎に声をかける。
「これ!丹羽殿!」
「はははは、はぃ!」
「全く、もっと背筋をしゃんとしなされ!」
「はい!」
政秀の一喝に背筋をピンと伸ばした五郎は額から汗を流しながら微かに震えている。
その姿に揚羽は頭を抱えたくなった、ふと視線を巡らせると、皆可愛い子供を見守る目で五郎を見ているではないか。
(なんと恥ずかしい……)
自分まで恥ずかしくなってきて赤くなってないか頬を撫でる。
その様子を見ていた濃姫はくすっと笑うと、揚羽に声をかける。
「大丈夫です、平手殿に任せておけば心配ありません」
濃姫の言葉に頷いた揚羽は、気を取り直して濃姫に相談させて貰おうと気持ちを切り替えた。
折角の機会だ、少しでも助言を貰えたら今後の指標に役立つかもしれない。
揚羽は大きく深呼吸すると、濃姫に一礼して自分の疑問をぶつける事にした。
隣で真剣な表情で話を始めた二人を横目に、五郎は厄介な人に目を付けられたんじゃないかと怯えていた。
政秀の一挙一動にビクっと反応すると、五郎は家に帰りたい気持ちで一杯だった。
お土産も既に渡したし、十分この集いの場に居たと思う。
そろそろ退散してもいいんじゃ……?そう思っていた矢先。
「丹羽殿!貴方にはじっくりお話する必要がありそうですね、ちょっと此方に来なさい!」
「えぇ!?ちょ、ちょっと待ってくださ……!」
何所にそんな力があるのか、政秀は五郎をずるずると引き摺って隣の部屋へ入っていく。
唖然とする揚羽を苦笑しながら濃姫が声をかけている、それが五郎が最後に見た光景だった。
ピシャリと襖を閉めると、政秀は五郎を解放して座らせる。
「あ、あの……」
「静かに」
「……」
五郎は政秀の一声に大人しく従う。
静かに座る五郎を見た政秀は、五郎の前でゆっくりとお茶を点て始めた。
静まり返った部屋に響く茶筅の音は不思議と心地良い気分にさせてくれる。
リラックスした気分に身体の力が抜けるのを感じると、五郎は政秀が此方を見ている事に気がついた。
スッと差し出される抹茶を飲もうとしてピタッと止まる。
(作法に厳しそうな平手殿の前でどうしたらいいんだ……飲み方があった気がするんだけど)
五郎が悩みながら抹茶を見つめていると、政秀はやれやれと言いたげな顔で声をかけた。
「丹羽殿、作法など今は気にせず飲んでみなされ」
「は、はい!」
政秀の許可を得た五郎はゴクッと一口、その味はどこかホッとさせてくれる暖かさがあった。
表情を緩ませた五郎を見た政秀は話を続ける。
「丹羽殿、いや……五郎殿とお呼びしましょう」
「は、はい」
「五郎殿、貴方はこれからどうなさるおつもりです」
「え~っと……」
政秀の質問の意図がわからない五郎は答えに窮する。
「本当にこれから丹羽家を背負うつもりなのかと聞いているのです」
「……はい」
小さく、しかし力強く返事を返す五郎に少し驚きを見せると、政秀は深い溜息をつく。
「若様はどうして、癖のある者達を傍に置きたがるのか」
「す、すみません」
「五郎殿、そうやってすぐ謝る癖は治しなさい」
「うぅ……」
「揚羽殿はまだまだ若い、それなのに貴方がその様におどおどしていたらいけませんぞ!」
「ひ、ひゃい!」
顔をグッと寄せて渇を入れられると声を上ずらせながら返事を返す。
「全く……色々と言いたい事はありますが、若様が決めた以上私は何も言いません……」
「……」
「しかし!このままでは長秀殿が余りにも忍びない、丁度良い機会です、今日は付きっ切りで武士とはなんたるかとお聞かせします」
「げっ!」
「……げっ?」
「よ、よろしくお願いします!」
思わず出た声に反応した政秀を見て、すぐさま深くお辞儀をすると大きく返事をする。
今日はこのまま二人っきりで気が休まる事がないと思うと泣きたくなった。
「まず……」
早速話を始めた政秀を見た五郎は、『まださっきまでの女子会みたいな雰囲気の方がマシだったのかもしれない』と思うと早く終わる事を祈るしか出来なかった。
「五郎殿?」
揚羽が怪訝そうに隣に立つ五郎の様子を窺う。
魂が抜けたような顔で『お説教はもう嫌だ』と呟き続ける五郎を見て、揚羽はあの後何があったのだろうと首を傾げる。
「五郎殿!帰りますよ!」
「え……あ、はい」
揚羽の声にハッと現世に戻ってきた五郎は、屋敷の門前に居る事に気がついた。
結局あの後、政秀の話は途切れる事無く延々と続いたのである。
その話の中に多分に含まれていた信長のやんちゃ振りとその愚痴を聞かされた五郎は、『きっとストレス発散の相手にされたんだ』と思うしかなかった。
「そんなに厳しい稽古だったのですか?」
揚羽が少し心配そうに尋ねてくる。
五郎は引きつった笑みを浮かべると、揚羽を安心させるべく返事をした。
「い、いえ……とても為になるお話しでした」
「?……そうですか」
「ずっと一対一だったので緊張して疲れただけですよ」
「なら、いいのですが」
それにしても今日は長い一日だった、終わってみればあっと言う間に感じるかもしれないが、政秀の説法を聞いている間はまるで時が止まったような感覚を味わった。
もう二度とこの集いに付き添いなんてしない、そう密かに誓う五郎だった。
でも……。
「濃姫様は綺麗だったなぁ」
「……(ピクッ)」
「他の皆も綺麗な人ばっかりだったし……」
「ふんっ!」
「!!?!?!」
油断していた所に打ち込まれた脛への一撃に五郎は悶絶する。
突然の攻撃に五郎は何か悪い事言ったのかと考えてみるが、揚羽がここまで怒る理由に検討がつかない。
揚羽は呻く五郎に背を向けるとさっさと先に行ってしまう。
「あ……揚羽殿!ちょっと待って……!」
五郎の声を無視して去っていく揚羽、五郎は痛む足を引き摺りながら必死にその後を追いかけるのだった。
その日の夜、小姓人達の話しによれば二人は……といよりも五郎は必死に揚羽に謝っていたのだが、揚羽は聞き入れる様子も無かったと言う。
「旦那様は……もうちょっと揚羽様の事を分かってあげないといけませんぜ」
「だなぁ、揚羽様も素直じゃないけど、明日になったら元通りになるって」
「んだ、今日は旦那様を誘って酒でも飲もう」
「そうしよう」
小姓人達が落ち込む五郎を晩酌に誘うと、五郎は泣きながら喜んだと言う。
そんな五郎を見た小姓人達は『本当に変わった人だ』と再確認すると、そんな憎めない五郎と本当は心優しい揚羽を自分達が支えなければと感じたらしい。
因みに、調子に乗って深酒した五郎は翌日二日酔いになり、怒った揚羽の雷が直撃する事になる。自業自得である。




