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第三十八章~今川家衰退の兆し~

「信長様、どうなさるおつもりですか?」


勝利を祝う大宴会から既に1ヶ月、信長は柴田勝家を含め数人の家臣と評定を行っていた。

議題は今川と松平の動向である、突くなら勢いのある今だが、忘れては行けないのが美濃と伊勢からの侵攻である。


「……岡崎の様子はどうだ?」

「松平軍との睨み合いが継続中です、今は被害を最小限に抑えがらの侵攻を繰り返しています」

「変わった様子はなかったか?」

「気になる報告は……」


勝家が顎に手を当て考え始めると隣に控えていた滝川一益が一礼して話し出す。


「私が受けた報告によれば、岡崎にいるのは松平軍のみだと言う話です」

「……ほう」

「今川軍は三河からも撤退したのか?」

「はい、恐らく義元殿や先の合戦で討死した武将の殆どが駿河の有力な方々だったようで、我等がそのまま三河、そして駿河まで侵攻すると思って怯えて逃げ帰ったのでしょう」


一益の報告に信長は勝家と顔を見合わせると、皆に意見を聞くために尋ねる。


「皆、どう思う?」


信長の問いに各々腕を組んで考え込む、その中で五郎は全くわかってない顔で信長に尋ね返した。


「あ、あの信長様~」

「ん?」

「その……今川さんが弱っているなら一気に攻め落とせないんですか?」

「無理だな」

「何でです?」

「無理……は言い過ぎたか、戦力を削れたとはいえ今川を攻めるには三河を越えねばならん。問題はその三河に居る松平元康よ、奴が先鋒として大高まで侵攻してきたお陰で我が軍は篭城か打って出るか騒ぐ事になったのだ」

「つまり、強いんですか?」

「強い、ついでに言えば松平にも勝家のような暴れ者が居るのだ……想像してみろ」

「…………(悪寒)」

「だから今も睨み合いだけで、深く攻め込んでおらんのだ」


信長の説明にコクコクと頷くと五郎は大人しく皆の話を聞くことにした。

皆は真剣な表情で地図上を指差し意見を出し合う。

五郎はこのまま今川を落とすべきだと好戦的な意見が多いと思っていたのだが、意外にも悩ましそうな顔で意見を交わしている。

その様子を見ていた五郎は隣でじっと地図を見ている勝家に小さく尋ねてみる。


「勝家さん、皆さん意外と消極的なんですね」

「当たり前だ……と言っても五郎はまだ今の情勢がよく分からないんだったな。いいか地図をよく見てみろ」

「地図、ですか」

「そうだ、尾張の周りをよく見ろ」

「…………」

「…………」

「当然なんでしょうけど、囲まれてますね」

「そうだ、そして問題なのは美濃とは関係が最悪の状態、伊勢とは関係こそ良くも悪くもないが……桑名が美濃との境に位置するせいで隙を見せると北畠家が動く可能性がある」

「う……、それじゃ下手に戦力を動かせないって事ですか?」


勝家が深く頷くと五郎も頬を掻いて地図を眺める。

勝家の話を聞いて分かったのは、松平軍がやっかいな存在だという事だ。

あれほど織田軍を苦しめておきながら、桶狭間の敗戦を知った途端にすぐ撤退する動きの早さ、そして岡崎に戻った後の行動の早さを聞けば岡崎を攻略する為には生半可な戦力では落としきれないだろうという事である。


「でも、松平がここまで我が軍と抗戦しているのに今川から援軍がないのは何故でしょう?」

「恐らくそれ所じゃないんだろう、まだ当主である氏真殿は若いと聞く。家督を譲ったとは言え義元殿の存在が今川家の求心力として大きかったはずだ」

「つまり岡崎を攻略出来ないと駿河を攻めれず、このまま現状を維持するしかないって事ですか?」


五郎の問いに頷いた勝家は『信長様はどう考えておられるのか』と呟くと目を閉じて皆の意見に耳を傾ける事に集中する事にした。




「雪斎!雪斎はどこ!」


今川氏真は頼りにしていた重鎮の姿を探すが全く見当たらない事に腹を立てると、怒鳴り声をあげる。


「こんな大事な時にどこ行ったのさ!」


怒りに身を震わせながら大広間へと足を向ける、その心中は穏やかではない。

雪斎の策によって国境を混乱させる事に成功した勢いに乗って、父である義元の軍勢は清洲城まで後一歩と迫ったのだ。

それが終わってみればどういう事か、桶狭間で奇襲された挙句に父は討たれ、この駿河の有力武将を多く失ったではないか。


「松平め……!」


それに今川軍の敗走知った松平は岡崎に撤退して以降、氏真の要請を拒否しているのである。

家中を安定させようと必死に動いているのだが、相次ぐ離反や氏真の統治に不満を持つ者達との紛争によってその力は徐々に衰えていく。

そんな中、松平は勢力下においた岡崎で織田と睨み合っているのだが、一方で三河の旧領回復を始めていると報告があったのだ。


「このままでは松平を野放しにする事になるじゃないか!」


怒りのままに茶器を叩きつけると、パリンと大きな音を立て割れる。

氏真の姿に家臣達はどうしたものかと様子を窺うが、下手な事を言うと処罰されかねない。

今の氏真に冷静さはない、発言に気をつけなければ無実の罪で首を刎ねられるような危険な雰囲気を纏っている。


「雪斎が……雪斎がいれば!」


怨嗟のように雪斎の名を繰り返す氏真を恐る恐る見守る家臣達は、このままでは今川家も長くは持たないだろうと思わざるを得ない、自分達も身の振り方を考える時が来たのかもしれない。




雪斎と呼ばれていた男は既に駿河から姿を消していた、氏真が幾ら探そうと居るはずがなかったのだ。


「最後の最後で見誤ったか……」


口惜しそうに呟くと男は暗い部屋に灯る蝋燭の火を静かに見つめる。

ゆらゆらと揺れながら燃え続ける蝋燭はまるで今川家の今後を示しているかのようだ。


「やはり義元を桶狭間で失ったのは大きかったか、信長め!」


雪斎は信長の奇襲によって今川家の掌握と尾張の制圧を打ち砕かれ、すぐさま駿河から逃げ出したのだ。


「尾張の侵攻は失敗してはならなかったのだ」


桶狭間で失ったのは何も駿河の有力武将だけではない、一番やっかいなのは岡崎で着々と力をつけている松平の存在である。

尾張侵攻で織田軍に対して先陣を切っていたのは松平と三河の国人衆なのだ。

多大な犠牲を払ったにも関わらず、前線で激しい戦を繰り広げていた松平軍を置いて今川軍は我先にと敗走したのだ。


「最早松平にとって義元を失って混乱する今川に手を貸す気はあるまい」


それどころか今川家が混乱している間に独立する可能性が高い。


「覚えていろ……織田信長……」


恨めしそうに呟くと、蝋燭がふっと消えた。




「うーん」


五郎は皆の意見を聞いているがさっぱり思考が追いついていない。

圧倒的に情報が足りないのだ、それも仕方のない事だが、自分だけそわそわと聞いてるだけの状況は居心地が悪い。

折角、評定の場に参加させて貰ったのだ、少しは何か意見を出せればと思っていたのである。


「駄目だ、何も思いつかない」


五郎が一人ごちると勝家がぽんぽんと肩を叩く。


「無理するな、今は皆の意見を聞いているだけでいい」

「ですけど……」

「まだまだひよっこなんだ、気になる事があった時に言えばいいんだ」

「はい……」


勝家に気を遣われて五郎は肩を落とす、深い溜息をついて大人しく耳を傾ける事にしたのであった。

勝家は五郎の様子に苦笑すると、隣に居た一益に声をかける。


「一益、すまないが頼まれてくれ」

「はい、何でしょう?」

「ほれ、あいつがすっかり落ち込んじまった……信長様に言って何か甘いものでも持ってきてくれないか?」

「……なるほど、長秀殿はまだ評定に慣れていないでしょうからね、わかりました」


一益は勝家の頼みを受けると、信長に許可を得てから広間を退室した。

一瞬困った顔を見せたのは恐らく信長が我侭を言ったのだろう。

『帰蝶に内緒で金平糖を沢山持って来い』と聞こえた気がしたのは……間違いではなかったようだ。


「後で怒られるのは御自身でしょうに……」


勝家は嘆息すると、一益が戻ってくるまで静かに話し合いを見守った。

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