第百二十三章~元康様と政秀さん~
「ふぅ、食べた食べた! どうだ康政?」
「はい、とても美味しかったですよ」
「だろう? 俺の贔屓にしておる店だ、お前も気に入ったのなら寄ってやってくれ」
「是非」
「……うっぷ」
信長と康政が話していると、二人の横でお腹を膨らませた元康がゴロゴロと寝転んでいた。
信長が連れて行った店がお気に召したらしく、二人の倍以上のご飯を食べたのである。
「……調子に乗って食うからそうなるのだ」
「で、でも……美味しかったんです」
「元康様もまだ育ち盛り、良いではありませんか」
「良いものか! 見ろ……このだらしない腹を」
「あ、あぅ」
「まぁまぁ……」
康政が信長を宥めている間にも元康は苦しそうにお腹をさすっている。
どうやら相当食べ過ぎたようだ、『うぅ』と呻きながら顔を歪ませている。
そんな元康を見て呆れたのか、信長は溜息をつくと康政にもっと寄る様に手招く。
「おい、あの狸は何をしに来たのだ?」
「は、ははは……元康様も一度夢中になると止まれない性分ですから」
「……このまま帰れば俺としては面倒が無くて良いのだが」
「いやぁ……私からは何とも……」
「お主がこのまま元康を抱えて帰るのはどうだ?」
「ご容赦を……そんな事したら暫くご機嫌を損なわれるので……」
「その位で臍を曲げるのか? 器の小さい男だ」
康政は信長の言葉を聞いて『信長様に良く似ておられますよ』と思ったのだが、とても言える事ではなく堪えるのに必死だった。
密かに康政が耐えていると、少し楽になったのか元康が呻きながら信長に擦り寄ってくる。
「あ、兄様……うっぷ」
「擦り寄ってくるな! 気色悪いわ!」
「そ、そんな……酷い」
「いいからそのみっともない腹を何とかしろ!」
「は、はぃ……」
元康は信長に叱られて肩を落とすと部屋を出て行った、どうやら城内を歩いて少し腹を引っ込ませようと考えたらしい。
「……あの様子だと暫く戻ってこんな」
「信長様が怒鳴られるからですよ」
「この調子であいつは大丈夫なのか? いつまでも俺と手を組んだままで終わるつもりじゃなかろう?」
「…………」
「…………」
信長の言葉に迂闊な事を言えないと感じた康政は黙り込む、すると信長も黙って康政の顔を正面から覗き込んでくる。
それからどの位の時間が経ったのだろう、信長はふぅ~と大きく息を吐いてから顔を離すと場の空気を変える。
「康政、今の言葉は忘れろ」
「……はっ」
「もし、俺と敵対する事になったら五郎に先鋒を任せるとするか! くっくっくっ!」
「ははは……それは五郎が可哀想ですよ」
「くくく、だが元康に対しては有効な一手だろう?」
「もしかすると、元康様が五郎を捕らえて勢いを増すかもしれませんよ?」
「それは困るな」
「でしょう?」
信長と康政が織田と松平が敵対した場合に五郎をどう扱うか議論していると、部屋の外から息を荒くした元康が入ってくる。
いつの間にか結構な時間が経っていたらしい、心なしかすっきりとした元康の身体を見る限り頑張って歩いてきたようだ。
元康は息を整えてから信長の前に立つと、『えっへん!』と胸を張って手を腰に当てて口を開く。
「どうです兄様! 見事元康はお腹を引っ込ませて来ました!」
「……(スッ)」
「これならば兄様も文句は……あうっ!」
「ほう……少しは引っ込んだようだが……この出っ張りはなんだ? あぁん?(つんつん)」
「あうっ! あうっ! や、止めて下さい……」
「ほ~れほれ!(つんつんつんつん)」
「や、康政~助けてよぅ~!」
「あ、あはは……頑張って下さい元康様……」
この状況で信長を止める事が出来ないと悟っている康政は応援する事しか出来ない。
何せ信長が物凄く楽しそうに扇子で元康のお腹を突いているのだ、五郎の話を参考する限り楽しみを邪魔されると激怒する可能性がある。
ここは元康には耐えて貰い、そろそろ信長の下を訪れた目的を果たして帰らなければ。
康政がジッと二人を見守っていると、そこに乱入者が現われる。
「…………若、何をなさっておいでか?」
「……げっ」
「げっ? もしや私に見られては不味い事でも?」
「い、いや……そんな訳がないだろう?」
「では、松平殿に何をなさっておるのです」
「……別に、何もしておらん」
「くわっ!」
「ぬおっ!」
政秀が叫び声と共に薙刀を振り下ろす、信長は危険を察して元康を突いていた身体を跳ねさせてその場を回避する。
踏鞴を踏みながら襖に寄りかかると政秀に文句を放つ。
「おい! いきなり危ないだろうが!」
「私に面倒事を押し付けて何をなさっているかと思えば……態々ご足労頂いた松平殿になんと無礼な!」
「無礼などしておらんわ!」
「言い訳無用! 今日という今日はその性根を叩き直して頂きますぞ!」
「断る! 俺は今忙しいのだ、婆の相手なぞしてられるか!」
「むきぃ~~~! 何度も言いますがまだ私は婆などではありません!」
「そうやって喚いて怒鳴り散らしておるのだ、口煩い婆ではないか!」
「こ、このっ! 若! 許しませんぞ!」
「許して貰う謂れは無いわ!」
一触即発の状態で睨み合う信長と政秀、一瞬にして部屋の空気がピリピリと緊迫した状況になる。
するとわたわたと慌てた元康が政秀に声を掛ける。
「政秀お姉さん! お、落ち着いて下さい!」
元康の言葉に政秀の空気が一瞬だけ緩む、対する信長は今にも吹き出しそうな顔で必死に耐えていた。
どうやら信長も政秀がこのまま暴れるのは好ましくないらしい、両手で口を押さえて堪えているようだ。
そんな信長に気づいていないのか、政秀は元康に慈愛に満ちた表情を浮かべると薙刀を納めると頭を下げた。
「松平殿、どうか若の無礼をお許し下さい」
「い、いえ! 僕は何とも思っていませんから……」
「有難う御座います、松平殿の懐の大きさにこの政秀……感謝致します」
「此方こそ……お騒がせしました」
「いえいえ、どうせ『若』のおふざけでありましょう? 『若』の」
「……こ、このっ」
「信長様っ! ここは堪えて下さい……! ここで暴れたらまた同じ事になります!」
「ぐ、ぐぐっ……おのれぇ……!」
「折角元康様が場を治めたのです……どうか!」
「…………ふんっ!」
どうやら康政の必死に説得が効いたのか、政秀の嫌味に暴れだしそうになった信長は堪えてくれるようだ。
その間にも元康と穏やかに話を続ける政秀はまるで母親の様である。
信長は自分と元康の扱いの差に不満がありつつもその様子を大人しく見守る。
長々と二人の話が続く間見守る事になった信長と康政は段々退屈になってきた。
仕方が無いので何か話でもと思っていたのだが……、やっと話が一段落したのか政秀と元康が此方に視線を向ける。
「若、何を呆けておられるのです! 松平殿が大事な話があると申しておりますぞ!」
「……分かったから喚くな」
政秀の相手をするのも面倒になった信長は耳を手で塞ぎながら返事をする。
その返事に満足したのか政秀はうんうんと頷いてから部屋を出て行った。
部屋に残された信長含む三人は去って行った政秀を心を一つにした。
「「「何をしに来たんだ?」」」
政秀の用件がさっぱり分からぬまま三人は静まり返った部屋で頭に疑問符を浮かべた。
分かった事は政秀が来たお陰で信長の元康弄りは止まったが、信長の体力が激しく失われた事である。
すっかり疲れきった表情を浮かべた信長は、だらっと身体を横にすると元康に告げる。
「おい、狸」
「は、はい!」
「今日は疲れた、特に急いで戻る必要が無ければ泊まっていけ」
「えっ! 良いんですか!」
「……は、はは」
「うむ、五郎の事も夜にでも話してやろう」
「本当ですね! 絶対ですよ!」
「康政、お主も構わんな?」
「はい……」
康政は溜息をつきながらも返事をした、元康が信長の下を訪れると決めた時に泊まる可能性も考えていたのだ。
出来ればそうならないように願っていたのだが、どうやら無駄になったようである。
もう一度溜息をついてから元康を見る、すると子供のようにはしゃぐ元康が信長に飛びついては撥ね退けられる光景が繰り返されていた。




