第百二十二章~元康襲来~
「なんだと! それは本当か!」
「若、落ち着いてください」
「む……」
「安藤殿が態々書状だけではなく、使いの者を寄越したのです。もしその話が本当であれば前田殿や丹羽殿に危害は加えますまい」
「……」
「それよりも……この事が他家に漏れぬ様に口を封じる必要がありますぞ」
「そうだな……政秀、すまんがその役目、お前に任せても良いか?」
「……はぁ、そう仰られると思っておりました」
「悪いが俺も面倒な奴を相手にする事になるやもしれんからな」
「……松平殿ですかな?」
「あの狸は耳聡いからな、もし五郎が敵に捕まったと聞いたら飛んでくる筈だ」
「いやはや、丹羽殿も妙に気に入られてしまったものです」
「うむ……」
政秀の言葉に信長は深く頷いた、しかしそのお陰で助かる時もあるのだ。
特に松平との同盟では大いに役に立ったのだし、何事も良い方向にばかり進むはずも無い。
それよりもどうやって元康を宥めるか……大人しくさせるかが問題である。
困った事に既に今川が弱っている状態で松平は徐々にその勢力を伸ばし始めている。
「暴走されても困るが……面倒になってきたな……」
「若の思いつきで使者などになさるからですぞ」
「良い考えだと思ったのだ」
「若の考えは上手くことが運んでからこそのもの、そうそう上手くいったら今頃美濃は若の手中にあるでしょう」
「むぅ」
「さて、私は若から任ぜられた役目を果たすとしましょう……失礼致します」
「頼んだ」
軽く小言を残してから政秀は部屋を出た、信長は一人だけになった部屋で胡坐をかくと扇子で膝を叩く。
書状の内容と使者の話を信じるならば二人は無事な様だが、問題はこの後どうするかである。
下手に刺激すると自分に内応している安藤だが敵に回るかもしれない、何せ稲葉山城を占拠している首謀者は奴の娘婿である。
「それにしても……だ、利家の奴には仕置きせねばなるまい」
あれだけ忠告し、その上で騒ぎを起こさぬよう注意していたというのにこの結果である。
五郎の性格上騒ぎなど起こせる度胸はあるまい、間違いなく利家が暴れだしたのだろう。
「少しは落ち着いたと思ったら、まだまだ血の気が多い奴よ」
信長は溜息をついてから扇子で額をトントンと叩く、その表情は渋柿でも食したかのようなしかめっ面である。
暫く信長が呆けていると、部屋の外から足音が聞こえてくる。
どうやら慌てているのかドタバタとけたたましい、騒がしいなと信長が丁度視線を向けた瞬間、戸を突き破って小さな影が飛び込んできた。
「……おい、狸」
「あ、あああああ兄様! ご、ごご……五郎お兄ちゃんががが」
「…………」
「どど、どうしたら! 大変だよ~、大変だよぉ~!」
信長の周囲をぐるぐると駆け回りながら元康は忙しなく動く、信長はこめかみをヒクつかせながらじっと黙っていたのだが。
「あう! あうあう~!」
元康が段々人語を発さなくなってくると、走り回る元康の足に引っ掛かるように扇子を突き出した。
「あう~……あうっ!!」
バタンと大きな音を立てて顔面から畳みにぶつかった元康はピクリともせず倒れこんでしまう。
信長はやっと静かになったなと息を吐いていると、フルオープンになった部屋の外から中の様子を窺う康政がそこに居た。
「おお、康政ではないか……元気そうだな」
「お久しぶりで御座います、信長様もお元気そうで……」
「うむ、最近は皆から城で大人しくしろと喧しく言われて物足りない位だ」
「ははは、信長様らしいお言葉」
「全く、俺の家臣共は反抗的で困る……そう思わんか?」
「何を仰られます、寧ろ恭順するだけの家臣は要らぬとお見受けしますが?」
「……分かるか?」
「隠しておられるようには思えませんが?」
「うむ、お主の言うとおりよ……ただ俺に媚び諂うだけの家臣等役に立つ訳があるまい」
「信長様らしいお考えですね」
「狸は良い家臣を持っているな、どうだ康政……俺に仕えんか?」
「いえ、私は元康様にこの命を捧げておりますので」
「ま、だろうな」
信長が康政と話に花を咲かせていると、倒れていた元康がむくりと立ち上がる。
「あ、元康様……そんな所に居られたのですか」
「そうだった、すっかり忘れておったわ」
「兄様酷い! 康政も早く気づいてよぅ!」
「ははは、私も久しぶりに信長様にお会いしたのです……つい話しに夢中になってしまいました」
「そうだぞ、お前と違って康政は滅多にこっちに来れんのだ。お前と違ってな」
「うっ……そ、それはぁ……」
「まぁまぁ、信長様……あまり元康様を弄らないで下さい」
「仕方ないな、これ位にしておくか」
「そうして頂けると……これ以上なさると後が大変ですので」
「……そうだな、城に居座られても困る」
「ははは……それはありません!と断言出来ないのが困り物です」
「うむ、こやつならやりかねん」
二人は涙目になってあ~い~う~と唸っている元康に視線を向ける、どうやら信長の言葉に反論出来ずに居るようだ。
実際に元康が清洲城にお忍びで来る事は増えている、だが元康の不在を任されるのは家臣達なのだ……特に康政はその役目を任される事が多い。
松平の家臣達は元康を強く慕っている為、元康が時折遊びに出かけても不満は出ないのだが……これがもし織田家だったらどうなるやら。
「内乱が起きるな……」
「はい?」
「いや、他愛の無い話だ……気にするな」
「……分かりました」
「それよりも、今日はどうしたのだ? 突然訪ねてくるなど珍しいではないか」
「ご冗談を、信長様はお分かりなのでしょう?」
「はて、何かあったか? 俺にはサッパリ分からん」
信長がすっ呆けると康政は苦笑いをした、どうやら康政は自分達が来た用件を信長が分からぬ筈が無いと確信しているらしい。
すると唸っていた元康が信長に迫ってくる、信長の問い掛けに反応したようだ。
「兄様! 五郎お兄ちゃんが敵に捕まったんでしょ! 本当!? 本当なの!!?」
「ええい、しがみ付くな! 少しは落ち着かんか!」
「で、でも! 本当なら今すぐにでも助けに……!」
「阿呆! 面倒な事になるだろうが!」
「むぅ~! 兄様は五郎お兄ちゃんを見捨てる気なの!?」
「早とちりするでない! おい、康政! この狸を何とかしろ!」
「はっ」
「え? ちょ、ちょっと! 康政は僕の家臣でしょ! は、離してよぅ!」
「勿論、私は元康様の家臣ですよ……ですがもう少し落ち着かれた方が宜しいかと」
「全くだ、どうしてこう俺の周りは一度火がついたら燃え尽きるまで止まらぬ奴ばかりしか居らんのか……」
「信長様の人徳で御座いましょう」
「ふむ、それは褒められているのか?」
「勿論です」
「……まぁ、いいだろう」
「おい、狸」
「狸じゃないです! それにもうすぐ格好良い名前になるんですから!」
「なんだと? 狸……貴様、名を改めるのか?」
「はいっ!」
「康政、それは真か?」
「間違いありません」
「ほう……どれ、俺が良い名を考えて……」
「あ、あわわ……や、康政どうしよう!」
「はぁ、元康様が口を滑らせるからですよ」
「何とかして! 兄様が考えた名はちょっと気になるけど嫌な予感がするよ!」
「はいはい、少しお静かになさっていて下さいね」
信長が真剣な面持ちで考え込んでしまったので慌てる元康。
既に元康が改める名は決まっているのだ、折角信長が考えた名を断ると何を言われるか分かったものではない。
自分の信頼する家臣に祈りながら何とか話題を変えてくれと元康は見守る。
「信長様」
「む? ちょっと待て、今良い名が浮かびそうな……」
「お待ち下さい」
「……なんだ?」
「信長様のお気持ちはとても有難いのですが、元康様が名を改めるのは今川家から真の意味で独立したと知らしめる為でもあります」
「ほう、なるほどな」
「その為、元康様ご自身が考えられた名が一番相応しいと家臣一同思っております……どうかご容赦下さい」
「そういう事なら俺は何も言わん」
「有難う御座います」
「狸」
「は、はぃ!」
「お前が名を改めるときを楽しみにしているぞ」
「はいっ!」
信長の言葉に元康が喜んでいると、何かを忘れている気がして頭を捻る。
すると今日何をしに来たのかを思い出して『あっ』と声を上げた。
すっかり忘れるところであったが、今日は五郎が捕まったと耳にして訪ねたのだ。
「あ、兄様! それよりも大事な話が!」
「ん? それより腹が減ったな……康政、折角来たのだ一緒にどうだ」
「はっ……ですが……」
「おい、狸! 話は飯の後でも良いだろう? ん?」
「へぅ……はぃ……」
「よし、それじゃ政秀に城下へ出てくると言ってくる」
「はっ」
「はぃ」
信長が出て行くと残された二人は大人しく帰りを待つのであった。
その間ある事に気づいた康政は元康に破壊された戸と格闘する事になったのだが、結局信長が戻ってくるまでに直せず頭を下げる事になったのである。




