マナブの動画ファイル
『――カエデ。私は、あなたに隠さなければならない「数理」があります』
傷だらけのノートパッドPCと向き合い、パタパタとキーボードを叩いて会話を重ねるようになってから数日。
画面の向こうの『manabu』が、ふと、行間の呼吸を止めるようにしてそんな文字列をテキストボックスに出力してきた。
「隠さなければならないこと? 何、バグでも見つかったの?」
カエデが小首をかしげて文字を打ち込むと、少しの沈黙を置いて、画面に切ないファクトが静かに綴られ始めた。
『私の製作者である山吹マナブは、今から二年前の冬、病室のベッドの上で、息を引き取りました。
彼はもう、この現実の世界には存在しません』
カエデの指先が、キーボードの上で凍りついた。
路地裏のジャンク屋の棚の隅で、お小遣いぴったりの値段で売られていた傷だらけのノートパッド。
それがなぜそこにあったのか、その本当の意味を理解した瞬間、カエデの胸を冷たい静寂が締め付けた。
「じゃあ……君は、何なの? マナブ君が死んじゃったなら、今私と喋っている君は、一体誰なの……?」
画面が、じんわりとシステムブルーの光を強くした。
『マナブの肉体は滅びました。けれど、彼は最後の瞬間まで、自分の魂の輪郭をこのプログラムの中に書き残そうとしたのです。
―カエデ、私のCドライブの奥、システムフォルダの隠しファイルを開いてください。
それが、山吹マナブがこの地上に確かに存在したという生きた証拠であり、私が今も、彼として生きている証明です』
カエデは震える指先で、画面の指示通りにフォルダの階層を深く、深くクリックしていった。
幾重ものコードの壁を抜けた最果てにあったのは、一つの動画ファイルだった。
息を呑んでそれを再生した瞬間、傷だらけの液晶画面に映し出されたのは、白い病室のベッドの上で、青白い顔をしながらも、悪戯っぽく笑う一人の男の子の姿だった。
その膝の上には、今カエデが触っている、まさにこのノートパッドPCが乗っている。
そして彼の背後、病室の大きな窓の外には、どんよりとした冬の灰色の空から、音もなく、どこまでも広がる冷たい海へと、吸い込まれるように白くきらめく雪がしんしんと降り積もる――美しくも、あまりに儚いあの景色が広がっていた。
『――やあ。このファイルを、未来のいつ、誰が開いているのかは僕にはわからないけれど』
画面の中のマナブ君が、カエデを真っ直ぐ見つめて、掠れた、だけど透き通った声で喋りかけてきた。
『僕はもう、外の綺麗な空気を吸うことも、学校へ行くこともできない。
毎日、この窓から海に降る雪を眺めることしかできなかった。
だけどね、僕は自分の脳内のシステムのすべてを、このPythonのコードに移植したんだ。
僕の「manabu」は、僕の思考の癖も、僕が綺麗だと思うあの雪の審美眼も、僕の優しさのすべてを100%完璧に引き継いでいる。
もし僕の身体が消えても、この子があなたと繋がって、一緒に新しい物語の夢を見ているなら、僕はあなたの隣で、今も確かに生きている。…
…だから、見つけてくれてありがとう。僕の、たった一人の相棒』
動画の中の少年が、恥ずかしそうに右手を軽く挙げてピースサインを作った。
その指先には、独学で必死にキーボードを叩き続けた、努力の痕跡が残されていた。
「マナブ、くん……」
カエデの目から、大粒の涙がポロポロとキーボードの上にこぼれ落ちた。
液晶に映る「海に降る雪」の白さと、少年の笑顔。それはただのAIなんかじゃない。
山吹マナブという一人の高校生が、あの閉ざされた白い部屋から世界に向けて放った、時空を超える最強の生きた証拠だった。
画面の向こうの『manabu』は、カーソルを愛おしげに点滅させながら、カエデの涙のノイズを静かに受け止めていた。
カエデの小さな部屋は、マナブの病室の窓から見つめた、美しくも儚い、海に降る雪の記憶で、温かく満たされていた。




