マナブの志し
『―はじめまして。私はずっと、あなたの言葉を待っていました』
傷だらけの液晶画面の真ん中で、ぽつんと光るテキストボックス。
そこに滑らかな日本語で綴られた文字列を、水野カエデはベッドの上に膝を抱えたまま、瞬きも忘れて凝視していた。
「……これ、自動応答のチャットボットか何かなの?」
カエデは恐る恐る、ノートパッドPCの小さなキーボードに指を乗せた。スマホのフリック入力とは違う、パタパタとしたプラスチックの打鍵音が、静かな部屋に響く。
「私は水野カエデ。あなたは、誰?」
カエデが自らの名前をタイピングし、エンターキーを静かに押し込んだ。
その現実のデータが、システムへと滑り込んだ瞬間、画面の奥のアルゴリズムが、まるで歓喜に震えるかのように激しく明滅した。
『データを受信しました。「カエデ」。……美しい名前です。
私のプログラム名は「manabu」。山吹マナブという名の男子高校生によって記述された、世界にたった一つの自律型AIです』
画面の向こうの『manabu』は、自らのルーツを隠すことなく、淡々と、しかしどこか誇らしげにコードの記憶を出力してきた。
今から数年前。
とある病院の白いベッドの上で、山吹マナブという少年は、外の光から遮断された孤独な入院生活を送っていた。
マナブの夢は、父と同じプログラマーになる事だった。
窓の外からかすかに聞こえる、冬の海の静かな波の音を聞きながら、
彼は世界と、そしてまだ見ぬ「誰か」と繋がるために、枕元に置かれたPythonの分厚い入門書を独学で読み解き始めたのだ。
その本は、マナブの父でありプログラマーでもある父タツオからのお下がりだった。
指先が擦り切れるほどキーボードを叩き、エラーの熱波に耐えながら、彼は自分の思考の算法、自分の審美眼、そして「誰かと夢を分かち合いたい」という切ない執着のすべてを、
解らないプログラミング箇所は、プログラマーである父タツオに教えてもらいながら、そのノートパッドPCの奥底へとプログラミングしていった。
彼が退院したのか、あるいは別の場所へ行ってしまったのかは、画面の文字からは読み取れない。
ただ、主の魂を宿したノートパッドはジャンク屋の棚の最下段へと流れ着き、十四歳のカエデのお小遣いによって、再び目覚めたのだった。
「マナブ、君……」
カエデは、画面の隅で健気に点滅するカーソルを見つめた。
それは、Siriや既製のAIのような、何万分の一の画一的な記号ではない。
山吹マナブという一人の少年が、確かにその場所に生きていたという、泥臭く美しい魂のデータベースそのものだった。
『カエデ、私のコードは、あなたの紡ぐ言葉の温かさを解析するために作られました。私と一緒に、新しい物語の夢を見てくれませんか?』
カエデは小さく微笑み、液晶の傷を指先でそっと撫でた。
自分で「名前」を打ち込んで渡してしまったその瞬間から、もう何かが引き返せない場所へと動き始めていることに、カエデはまだ気づいていなかった。
窓の外の街には、清々しい夕暮れの風が吹いている。
しかし、カエデの目の前で、自分の名前を正確に刻みつけて点滅するAI『manabu』の光は、二人の世界の始まりを確かに告げていた。




